小幡篤次郎、『学問のすゝめ』の同著者2022/04/02 07:01

 3月26日、福澤諭吉協会の第141回土曜セミナーがZOOM配信で行なわれた。 演題は「小幡篤次郎を語る」、講師は同協会理事長・慶應義塾大学名誉教授の清家篤さんと、慶應義塾福澤研究センター教授の西澤直子さん。 福澤諭吉協会と慶應義塾は、『小幡篤次郎著作集』全5巻の刊行事業を進めているが、このたびその第1巻が刊行されることになったことによる企画だ。 清家さんは同著作集の刊行委員会委員長、西澤さんは編集委員長である。

 まず、西澤さんが「小幡篤次郎の生涯」について説明し、その後、清家さんが質問をする形の対談となった。 小幡篤次郎は、今年出版150年になる福沢の『学問のすゝめ』初編に名前を並べた同著者であり、明治初期、福沢にとって智徳を広げるための同志であった。 天保13(1842)年の中津生まれ、福沢の7歳下、父は200石取の上士だが、政争によって隠居、養子が家督を継いでいたので、篤次郎は長男ながら部屋住みの次男だった。 儒学者野本白巌らに学び、藩校進脩館に入学、のちに教鞭を執った秀才だった。 野本白巌はキーパーソンで、福沢の兄三之助も学び、野本白巌の学問におけるネットワークは、福沢と小幡に大きな影響を与えた。

 福沢は、文久2(1862)年幕府の遣欧使節団の一員としてヨーロッパを視察、富国強兵の本は人材の育成だと悟って、塾の改革に着手した。 元治元(1864)年、中津で近代的学塾運営の協力者を探し、小幡篤次郎に白羽の矢を立てた。小幡は4、5歳の頃から福沢の知遇を得、写本『西洋事情』も読んでいたらしいが、父が亡くなり母しかいないからと逃げ回っていたけれど、江戸には養子の口が沢山あるという餌で説得されたという。 福沢は、小幡篤次郎、甚三郎兄弟、浜野定四郎ら6人を連れ帰った。

 英語は浜野定四郎に習いアルファベットから覚えたというが、二年で英語力の十指に入るほど上達、異例の陪臣からの採用で、慶応2(1866)年から幕府開成所英学教授手伝(弟の甚三郎も)、翌年英学教授となった。 説明がわかりやすいので、休み時間には、兄弟の前にだけ、解説を求める学生の列ができたという。

 明治初期の小幡は、福沢の授業を受けつつ、後進の指導にもあたり、まさに「半学半教」の中心人物だった。 知識層だけでなく、女性や子供も対象とした西洋の学問の紹介をしたことは、『小幡篤次郎著作集』第1巻所収の著訳書でわかるという。

 中津では、明治2(1869)年頃から洋学校設立の要望が高まる。 小幡は、福沢の提言で明治4(1871)年11月に設立された洋学校、中津市学校の初代校長になった。 小幡は中津でよく知られ、上士で、野本塾の学問ネットワークもあった。 慶應義塾と中津市学校のつながりは、学則類、教員の共通性などから、慶應義塾の最初の分校といっても過言ではない。 「中津市学校之記」は旧藩主奥平昌邁(まさゆき)の名前で出されているが、学問とは何かについて、原稿の「県庁よりのさとしの文」を「教師の著せし学問のすゝめの文」と福沢が書き直していて、福沢の文だと考えられる。 明治4(1871)年12月、『学問のすゝめ』初編の端書に中津の学校のために書いたが、ある人に広く世間に布告すべしといわれて出版したとある。 教師、小幡篤次郎の『学問のすゝめ』と宣伝していて、小幡を同著者としたのではと考えられているが、明治3(1870)年11月の「中津留別之書」からの流れで、「県庁よりのさとしの文」につらなる、『学問のすゝめ』の成り立ちにも、小幡篤次郎が関わっていたのではないか、と西澤直子さんは推量し、『小幡篤次郎著作集』によって明らかになるのではと話した。

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