小幡篤次郎、ネットワークで知を広げる2022/04/03 07:16

 西澤直子さんの「小幡篤次郎の生涯」つづき。 中津士族のネットワークについて、桑名豊山という人物を上げる。 800石取、旧中津藩大身衆、幕末には京都留守居家老だった。 廃藩置県後、明治4(1871)年に慶應義塾に入り洋学を学ぶ。 明治10(1877)年、J.S.ミル『宗教三論』翻訳の校閲をした。 日本文の言葉の知識など、江戸期(近世)に集積した上士階級の智徳の、新しい社会への還元で、明治社会をつくる要因になった、と西澤さんは指摘した。

 交詢社の設立、明治13(1880)年1月発会式。 同窓会のようなものをつくろうとする福沢の意を受け、小幡の設立意図は、(1)新しい「人間交際」=情報網(ネットワーク)の形成、(2)藩がなくなった後の、新たな帰属意識。 交詢雑誌→コレスポンデンス・マガジン=都鄙の情報格差の是正、小幡はこれを重要だと考え、知をどう広げるか、教科書的な本をつくった。

 貴族院議員としての小幡篤次郎。(西澤さんの「小幡篤次郎の議員活動」が、『福澤諭吉年鑑』44(平成29(2017)年)にある。) 金本位制度に最後のひとりになるまで反対。 明治民法における親子の要件、女性の離婚から再婚までの期間の問題に小幡は触れていて、いろいろなところに気配りしていた人物だとわかる。

 慶應義塾塾長時代。 一緒に学ぶ仲間(学生)の長。 明治23(1890)年の大学部、明治24(1891)年の商業夜学校の設立など、義塾の拡大に関わる。 『慶應義塾学事及会計報告』の発刊など、社中の結束(智徳の共有)を図る。

 小幡の晩年は、明治22(1889)年以降単行本として出版された著作がなく、大学部の赤字経営、朝鮮からの国費留学生問題に塾長として対応した。 明治30(1897)年8月15日の塾長辞任から明治31年4月4日副社頭就任までの空白期間は、修身要領の編纂と普及のための講演会活動。 明治38(1905)年4月16日胃癌のため亡くなる。

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