日本の近代をみる重要な鍵2022/04/05 07:01

 そこで、西澤直子さんが、日本の近代は成功ではないと考えていて、福沢の道がどこでずれて行ったかを考えるのが、日本の近代をみる重要な鍵だとする、問題である。 西澤さんは、日本の近代は最終的に侵略、国内に留まらず外に出て行くところに道を見出すしかなくなってしまった、と言う。

 西澤さんの「小幡篤次郎の議員活動」(『福澤諭吉年鑑』44(平成29(2017)年))第五章 小幡篤次郎の近代構想と貴族院に、明治4年の廃藩置県の際の、小幡の7月20日付け山口良蔵宛書簡が引用されている(『福澤諭吉全集』別巻204頁)。 「「非常之御改革」に期待を寄せ、「六百年来之封建」を解き「一朝ニ郡県」と為す「千八百年代之美談」は、静まれば外国人から「実にアジヤチックのエンゲランド」と評されることを述べており、英国の政治体制への関心が読み取れる。」

 それに続けて、「また彼は福沢同様、あるいは(トクヴィルの)Democracy of Americaを講義していたこと(須田辰次郎の回想による)を考えれば、福沢以上に会議体や議論の方法論に関心を持っていた。明治7(1874)年6月27日に発会した三田演説会では初代会頭を務め、翌年には福沢諭吉、小泉信吉とともに、The Young Debater and Chairman’s Assistantを翻訳し、『会議弁』として刊行した。さらに13年には交詢社発足に関わり、矢野文雄によれば、交詢社私擬憲法案の起草は、小幡が「無論立憲制度を布かなければならぬが、と云って欧羅巴の憲法を其まま日本に持って来ることも考へ物である、日本は日本としての国に合った政法を一つ研究するの必要がありはしないか」と言い出し、中上川彦次郎、馬場辰猪らが加わって研究討議を開始したという。(『交詢社百年史』)」

 「小幡は議会こそ官と民との接点であり、二者を結ぶ有効な機関たり得ると考えていた。ゆえに貴族院が定見もなく、単に「人民」と政府との間の「取次」しかできないのであれば、いずれ人々の信頼を失い、その存在価値はなくなる。「請願」に対する彼の意見に明らかなように、彼は、議会は行政府から独立した立場で、「人民」の権利の伸張に努めなければならないと考えていた。また一方で請願か建白かをめぐる一件から伺えるように、「人民」に対しては、主導権を握ることができる立場である必要があった。」

 司会の小室正紀さんから、平石直昭さんが、西澤さんのこの日本の近代についての問題意識への意見を求められた。 平石さんは、昨年12月に『福澤諭吉と丸山眞男―近現代日本の思想的原点』(北海道大学出版会)を上梓され、1月10日の福澤先生誕生記念会で「福沢諭吉をどう読むか―『学者安心論』の位置付けを中心に」を講演なさっていた。 1月27日のこの日記に書いたように、その本は、幕末から明治に、日本の文明化と独立保持のために奮闘した福沢、戦前から戦後の日本がひっくり返る時代に、福沢を肥やしにして、真の民主化と国民主義の変革を求めた丸山。 「脳中大騒乱」時代、知的リーダーシップを発揮して、日本の変革に賭けた二人の思想形成、知的格闘は、持続的発展の例であり、それを跡づけることで、近代と現代の日本思想史を統一的に眺めるのに資する、としていた。

 突然の振りに、平石さんは、こう話した。 明治14年の政変が大きな意味があった。 井上毅(こわし)を中心にというか、岩倉具視や伊藤博文が、福沢の構想した方向ではない方向へ走り出した。 修身要領の話が出ていたが、それと対を成すもので、教育勅語の方向だ。 独立自尊、自分の頭で考えて、NOと言える人間になるという理念、それに対し、他人の言うことに羊のように付いて行くという問題点。 両方の流れに、福沢と、アンチ福沢がどうからみあっていたかを考えながら、日本の近代を分析するのが大事だ。