森山良子の父・久、大恐慌と戦争に翻弄され2022/04/16 07:06

 サンフランシスコに生まれた森山良子の父・久(ひさし)が10代で憧れたのが、ラジオで聴いて夢中になったサッチモ、ルイ・アームストロングだった。 妹・和(当時99歳、日本人の夫と横浜に暮らす)によると、久はソフトで友達をつくりやすいタイプで、教会の聖歌隊のリーダー、長兄の巌はきちんとしないと気が済まない人だった。 久は1928(昭和3)年、音楽を学ぶためカリフォルニア州ストックトンのパシフィック大学に進学した。 オーケストラに所属、ホルンを吹いていたというプログラムがあった。 20歳の時、アメリカ国籍を選択した。

しかし、1年後の1929(昭和4)年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する大恐慌で、サンフランシスコの森山写真館が大打撃を受け、久は退学を余儀なくされる。

 当時のアメリカでは日系ミュージシャンに未来が無く、久は日本に行くことを決意する。 1934(昭和9)年3月、24歳で日本へ。 コロンビア・ジャズバンドに所属、トランペットを吹き、従妹の三浦郁子(96)は神戸のステージで、久が「霧の十字路」を歌っているのを聞いたという(レコードもある)。 久は、吉本ダンシングチームでスイングを歌っていた新人女性シンガーの浅田陽子(良子の母)と出会う。 そのチームでギターを弾いていたのが、ロスアンゼルスから来た二世のジャズメン、ティーブ釜萢だった。 ムッシュかまやつの父で、母の恭子は、良子の母陽子と姉妹で、ムッシュと良子はいとこになる。 ムッシュは、恭子と陽子はモガだったんだろう、二人ともミュージシャンと結婚した、と話した。(ムッシュかまやつ、かまやつひろしは、放送の翌年2017(平成29)年3月1日に亡くなった。)

 久と陽子は、今もそのまま残っている飯倉のアパートで暮らし始めた。 兄の巌は、東部の名門エール大学で公衆衛生学の博士号を取得、ワシントンの政府機関で働いていた。 妹の和は、日本領事館職員、板橋栄治と結婚した。

 ところが、1941(昭和16)年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃した。 1942(昭和17)年2月、アメリカの日系人は強制収容所に収容され、財産も家も処分された。 巌は、両親をワシントンに呼び寄せ、和は夫と交換船で日本に帰される。 日本にいた久は、昭和17(1942)年6月24日、日本国籍を回復する。 久は、二つの祖国のはざまで、大恐慌と日米戦争によって、その人生を翻弄されることになった。