福沢の女性論・家族論は、「最後の決戦」に敗れた2022/04/06 06:55

 福澤諭吉協会の2005年度読書会は「福澤諭吉の女性論・家族論」をテーマにして、西澤直子さんを講師に開かれた。 私は『福澤手帖』第127号(2005(平成17)年12月)に、「読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」―西澤直子さんの話を聴いて―」を書かせてもらった。 その最後に、日本の近代をみる重要な鍵に関連して、福沢の女性論・家族論は、「最後の決戦」に勝ったのか、を書いていたので、以下に引かせてもらう。

明治31年から亡くなるまで:「新女大学主義」。 福沢は明治31年8月から9月にかけて、集中的に「女大学評論」「新女大学」を執筆した。 当時は貝原益軒著とされていた「女大学」的な修身道徳が、女性を縛る規範としてなお活きていて、それを復活助長する動きもあり、福沢は一夫一婦制、男女同等といった新しいモラル確立を妨げるものとして「女大学」を槍玉に挙げて論じたのだった。 福沢はまた、男性の意識改革がなければ状況は変わらないということを強調し、他人の目を気にして育児に協力しない父親を「勇気なき痴漢(ばかもの)」と書いている(「新女大学」)。

明治33年4月15日付の『時事新報』社説「最後の決戦」(日原昌造草稿)は、当時の社会状況を分析して、維新以後「有形の区域」物質文明においては「文明流」が勝利をおさめたが、「無形のもの」では抵抗力が強く「文明の進歩を渋滞せしむるの憂」があると述べて、「新旧最後の決戦とも云ふ可きものありて存するは即ち道徳修身の問題なり」「儒教主義の旧道徳を根柢より顛覆して文明主義の新道徳を注入せん」とした。 福沢はこの「文明流」対「儒教主義の旧道徳」を、女性論では「新女大学主義」対「女大学風の教育」として展開した。 それは福沢の近代化構想の一端であり、「女大学」(「女大学」的規範)は福沢が構想する日本の近代化とは相容れない存在として強く認識されていた。 福沢の女性論・家族論は、山川菊栄、堺利彦、福田英子、与謝野晶子から、昭和初期の金子(山高)しげり、戦後の本間久雄に至るまで、高い評価を受け続ける。 福沢の指摘している問題点が今日的であり続けるということは(私は、福沢のいう「男女共有寄合の国」「日本国民惣体持の国」と、「男女共同参画社会」担当大臣の存在を思った)、とりもなおさず、それらの問題点が近代化の過程で解決されてこなかったことを示している。 福沢の女性論・家族論は、「最後の決戦」に敗れたと、西澤さんは結論する。 明治10年代半ば以降「儒教主義の旧道徳」が示した「女大学」風の“新しい”女性像では、良妻賢母を国を担う女性の役割として位置づけ、国家富強に結びつけた。 それは日清、日露の戦争を経て、特に顕著になり、国民総動員体制へとつながったのだった。

かつて獅子文六は福沢を小説に書こうとして、断念した。 小説の主人公は、もう少し不幸で、曲折や陰翳がある方が書き易いのに、ほとんどトントン拍子で、性格も明るく無類に健康的で、まるで朝の太陽だというのだ。 『福翁自伝』の終りの「自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかり」を思い出す。 しかし、福沢研究の最先端はどうも一味違った福沢像を提示してきているようだ。 この読書会で西澤さんが、福沢の女性論・家族論は「最後の決戦」に破れたというし、昨年の読書会では松崎欣一さんが、福沢の晩年、文明の主義を説く年来の主張が、必ずしも世間に浸透していない、またその真意が十分理解されていないという思いが、『全集』編纂『全集緒言』執筆へと、福沢を突き動かしたのではないかと述べた。 今年6月の福澤研究センターのセミナーでは、竹森俊平経済学部教授の松方正義と福沢(大隈)の経済論戦の話で、「明治14年の政変」で日本が松方の路線を選択したことによって、福沢(大隈)のイギリス流議院内閣制憲法の路線は消え、立憲制とはいえ専制的で軍国主義的な近代天皇制国家の確立へと進むことにつながったと聞いた。 福沢の実像は、平成の獅子文六に小説の材料を提供しているだけでなく、日本の近代化は真に達成されたのだろうか、日本の社会は文明の精神を置き去りにして、かたちだけの文明開化に終始しているのではないか、という疑問を私達につきつけているようである。

「後妻打ち(うわなりうち)」2022/04/07 07:02

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、4月3日の第13回「幼なじみの絆」を見て驚いた。 『鎌倉殿の13人』の光と影<小人閑居日記 2022.3.25.>に、「西へ向かった義円と源行家、平家方に討たれてしまう。」と書いた源行家(杉本哲太)が出て来たからだ。 今まで下記を書いてきたが、その程度のものだと承知の上、お読みいただきたい。

『鎌倉殿の13人』平相国、木簡、佐殿、武衛<小人閑居日記 2022.3.9.>
坂東の武士結集、「いざ、鎌倉」へ<小人閑居日記 2022.3.10.>
富士川の合戦、平家敗走の真因?(笑)<小人閑居日記 2022.3.11.>

 最近の、つづきを書く。 3月27日の第12回「亀の前事件」。 政子(小池栄子)、二度目の懐妊、跡継ぎの男子出生。 比企家は、再び乳人となる、比企能員(佐藤二朗)の妻・道(堀内敬子)、比企尼(草笛光子)の孫・里(三浦透子・「カムカムエヴリバディ」お茶の先生の娘、「ドライブ・マイ・カー」の運転手)、常(渡邉梨香子)。 その間も、頼朝は亀(江口のりこ)のところへ通っていた。 政子は、北条時政(坂東彌十郎)の妻りく(宮沢りえ)や実衣(宮澤エマ)に耳打ちされ、りくの兄牧宗親(山崎一)は、都には「後妻打ち(うわなりうち)」があると教える。

 「後妻打ち」とは、「本妻や先妻が後妻をねたんで打つこと。室町時代、妻を離縁して後妻をめとった時、先妻が親しい女どもをかたらって後妻の家を襲う習俗があった。相当打。騒動打。(『広辞苑』)」
「ある人が妻を去り、その後まもなく後妻を迎えると、前妻が憤慨して、親しい女子を語らって箒やすりこ木などをもって後妻を襲撃した。後妻のほうでも親しい女子を集めて防戦に努めた。この習俗は平安時代から戦国時代ごろまで行われたが、とくに戦国時代には盛んであった。(石井良助・『日本大百科全書』)」

義時(小栗旬)に亀の前の家の見張りを頼まれた義経(菅田将暉)、弁慶らと、家をぶち壊し放火してしまう。 頼朝は怒って事情聴取、義経は謹慎させられ、りくをかばった時政は伊豆に引っ込み、牧宗親は髻(もとどり)を切られる。 義時は鎌倉に留まる。

「幼なじみの想い」ついに、めでたし2022/04/08 07:02

 4月3日の第13回「幼なじみの絆」。 鎌倉殿、源頼朝(大泉洋)の女好きはどうしようもない。 生きていた源行家(杉本哲太)がやって来て、すぐ平家を攻めようと言うが、これは断固拒否して、棟梁らしさも見せるのだが…。 頼朝が鷹狩帰りのふりをして、亀の家に行くと、政子がいて逃げ帰る。 政子は、亀に<黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人の恋しき>和泉式部の歌を聞かされ、りくに渡された、『和泉式部日記』を読んだか、と。 「私だって文筆を学んだ。伊豆の小さな豪族の家に育った行き遅れが、坂東中の女の憧れの的になったんだから」、鎌倉殿の「御台所」にふさわしい教養を学べと説教する。 安房の漁師の女房が、いつの間にか教養人になっていた。

 平泉藤原秀衡の脅威に、頼朝は動けず、京から文覚(市川猿之助)を呼んで、呪い殺す祈祷。 源範頼(迫田孝也)と義時、平家追討を計る木曾源義仲(青木崇高)(義朝の弟、義賢の子。のちの朝日将軍)のいる信州へ。 謹慎中だがむりやり連れて行ってもらうことにした義経、比企能員(佐藤二朗)が源家に娘を縁づかせようと図った、里(三浦透子)と寝ていて遅れる。 木曾源義仲、巴御前(秋元才加)、兄・今井兼平(町田悠宇)。 義仲は、嫡男・義高(市川染五郎)を人質として頼朝の下に送る。 源行家は、義仲の所にいた。

 義時は一途にいい人で、江間の八重(新垣結衣)のところにしばしば届け物をしていた。 八重の安心した後ろ姿さえ見られればと。 でも、もしできることならば、お帰りなさいと、笑顔で迎えてもらいたい。 頼朝が鷹狩のふりをして八重を訪い、叩き出されたところに、義時が信州土産を届けに来る。 ただ「幼なじみ」だからと言って去ろうとする義時に、八重は威儀を正して手を付き、「小四郎どの、ご苦労様でした、お帰りなさい」、と笑顔を見せる。 義時、一瞬怪訝な顔をするも、嬉しそうに座って、「只今、帰りました」と。 めでたし、めでたし。

『もう侵略主義は時代遅れである』犬養毅の演説2022/04/09 07:12

 夫のガンによる逝去で、妻が引き継いだ共著<小人閑居日記 2022.3.6.>に登場してもらった森川功さんが、剣道部の先輩に送ってもらったという、堀川恵子さんの司馬遼太郎賞受賞スピーチのコピーを送ってくれた。 「人はどう死ぬか、どう生ききるか」、犬養毅の生涯を描いた『狼の義 新 犬養木堂伝』林新、堀川恵子。 2020年2月14日の「菜の花忌」で話されたもので、掲載誌は同年3月24日発行の週刊朝日MOOK『司馬遼太郎と昭和』(朝日新聞出版)。 すばらしいスピーチなので、さわりを紹介したい。

 「今日は私一人で立っておりますが、もう一人の受賞者、林新がおります。」「林の人生は日吉の道場にありと言えるほど、長く剣道をやっておりました。剣道には『五行の構え』というのがあるそうですね。同級生からは、いつも林は上段の構えだったと聞いております。」「両手を振り上げ、胴もがら空き、喉も空いてしまう。相手を圧倒する気迫がなければできない構えであり、そこには守ると言う概念がない。本当に林の人生そのものだと思ったことがあります。」「そういう相手と夫婦になるのは大変なことでして、プライベートでは本当に優しい夫でしたが、こと仕事のことだと上段の構えになってしまう(笑)。いつも真っ向勝負で、妥協はいっさい許さない人でした。」

 「そんな夫が心底惚れ込んだのが犬養木堂でした。憲政史上もっとも難解な人物ではなかろうかと、そんな気がしています。/おそらく晩年の彼は自分の妻よりも木堂を愛していたのではないかな(笑)と実感するところです。」「NHKを退職し、本格的に執筆に入り、明治を終ったところで力尽き、逝ってしまいました。」「それを引き継ぐことになったわけですが、この本は、西南戦争から明治憲法の誕生、初めての議会、日清・日露を経て五・一五事件まで、まさに日本における立憲政治の歩みを描くという、本当に林らしい真っ向勝負の王道の物語でございます。」

 「さて何から手をつけていいやらと思ったのですが、やはり、これはもう資料を読むしかない。」「すでに林の命令で、国会図書館や憲政資料館に通い、親書や電報、新聞記事等の入手は私がやっていたので、目を通しておりました。そこに彼が残した約250冊の関連文献を読み、さらに自分が読まなくてはならないと気がついた約150冊を読みました。約1年間、ひたすら読むだけの生活をいたしました。」

 「実際に書き、いちばん血が燃えたぎるような思いになったのは、万年野党の党首だった犬養木堂が総理大臣になり、そして暗殺されるまでの半年間です。関東軍が主導し、満州国が建国されます。ところが犬養はそれを絶対に承認しないんですね。そんなことをすれば日本が破綻してしまう。そのため、非常に熾烈な軍部とのやり取りを半年間つづけるわけです。」

 「資料を読むと、本当に日が一日過ぎるごとに、犬養が孤立していく様が手にとるように感じられました。軍部はもちろん、宮中、メディアと、次から次へと犬養から去っていく。」

 「暗殺される2週間前、ラジオの演説で全国民に語りかける、その音源を林が入手しておりました。犬養はこう言っています。『もう侵略主義は時代遅れである』『我ら政友会が政権にあるあいだは絶対に戦争は行わない』」「犬養は立憲主義にもう一度立ち戻ろうと、演説で叫びます。私はこれを聴きながら、「本当の保守とはなにか」「真のリベラルってなんだろう」と改めて考えさせられました。」

 「そんな悲痛な演説の2週間後、犬養は暗殺されてしまいます。誰もそれに対して声を上げず、立ち上がらず、戦前の政党政治は五・一五事件を機に崩壊していきます。」                      (つづく)

「人がどう死ぬか、人がどう生ききるか」2022/04/10 07:47

 堀川恵子さんのスピーチ、つづき。 「犬養木堂の姿であるとか、立憲制度とは何かという事は、本を書くうえではひとつの重要なテーマです。/ただ、テーマではあるんですが、メッセージではない。私たち書き手が一冊の本を著す時には、表層で現れる事象ではなく、やはりなにかメッセージが必要だと思っています。」

 堀川さんは、テレビのディレクターから表現者としての人生をスタートしたので、物語を作り上げるとき、倉本聰さんの手法を真似てきたという。 まず、最初に壁一面に主要な登場人物、登場人物に影響を与えた人たちの年表を貼っていく。 今回は、壁一面に納まらず、大変な状況になった。 「その数々の年表をじっと見ながら考えたことは、私のこの仕上げようとしている作品は、人がどう死ぬか、人がどう生ききるかが大きなテーマなのではないかと思い至りました。たとえば西郷隆盛、正岡子規、あるいは三浦梧楼、もちろん犬養木堂、その腹心の古島一雄。あえて付け加えるならば私の夫もそうです。」「本当に晩年、命の灯火が尽きようとしているとき、残された時間と引き換えにしてでもやり遂げたいと思うものを持っていることは貴いと思います。最後まで自分の仕事を全うする。その姿を見て、こんな幸せなことはないなと感じました。」「人の最期を書くのは書き手としては覚悟を迫られるものでした。私自身、林の上段の構えで、この本に現れる男たちの骨を拾って歩こうと、そんな思いで執筆に向かいました。/私の夫は肉体は滅びてしまいましたが、なおそういった形で導いてくれた。やはりこの本はまぎれもなく共著であったと感じています。」

 「林はおそらくこの作品を手がけるときに、司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』をかなり強く意識していたと思います。/司馬さんが盛んにこの時代の立憲主義の形というものに触れていらっしゃる。/日露戦争という現場であっても、明治の武人たちは愚直なまでに国際法を遵守しようとします。戦場のさなかに法律に詳しい幕僚を連れ、法律違反の有無を必死に確かめる。/のちに立憲体制を空洞化することになる統帥権も健全に運営されています。あくまで統帥権とは軍部のなかの分業を定めるものであり、大きな枠のなかで憲法の下にあり、そこの道理を崩してはいない。」「私が大好きな武人の大山巌も、この戦争で敗れた場合の責任は自分が取ると公言しております。軍部の責任も明確な形であった。政治家だけではなく、軍人までも憲法のもとで行動を起こすという規範をもっていたのだろうと思うんです。」

 「同時に司馬さんは『坂の上の雲』のなかで、「専制国家は結局もろい」ということばを何度も引用されています。これはセオドア・ルーズベルトの言葉です。皇帝の専制下にあったロシア、一方で必死に立憲国家を目指す日本。勝敗はおのずと後者にあるであろうと、そういう示唆であったと思います。」

 「司馬先生は20年後、この立憲制度を支える柱について、『風塵抄』の「正直」という章で書かれました。結論部分を要約しますと、「立憲というのは、国家機関や政治家が正直であることを基礎としている。明治憲法は国民を成立させ、戦後憲法は個人をつくった。だから個々が正直を失えば日本国は崩壊するし、いわんや公を代表する国家機関や政治家が不正直であれば、それはガラス器具を落とすように壊れるのである」」「犬養らが必死で積み重ねた立憲制度も壊れるときは一瞬でした。その背景には政治家による汚職、疑獄事件などがあり、人心は政治家から離れていたということもあります。」

 「戦後70年以上が過ぎ、改めて振り返りますと、立憲主義は本当に時間がかかり、お金もかかります。とても忍耐を強いられる政治的なプロセスです。」

「林はたくさんのことばを私に残してくれましたが、最期に言いました。「3、4年に1冊いい本を書けよ」/3、4年に1冊というところがポイントだと思っています。つまり粗製濫造するなと。落ち着いていい本を書けという言葉だったんだろうと。これからも正直な取材をし、一生懸命書いてまいりたいと思います。このたびは本当にありがとうございました。」