町田は自由民権運動の地だった2022/05/16 07:07

しゃくやくスカーレット・オハラ

 薬師池公園、立派な公園だった。 江戸時代の古民家二軒、旧永井家、旧荻野家も保存されている。 太鼓橋を渡った所の藤の花は終わっていて、ハス池のハスの花はまだだったけれど。 もともとは湧水をせき止めたもので、戦国時代の末、天正5(1577)年に北条氏照の印判状が野津田の武藤半六郎(河合家祖先)にくだり、水田用溜池としての原型が天正18(1590)年に完成、以後灌漑用水として地域の農家の人々に大切に守られ、周りの林は薪を取る雑木林として手入れされてきたという。

 フォトサロンの建物を過ぎたところに、不思議な形の巨大な「自由民権の像」があり鐘が下がっていた。 町田市制40周年記念のモニュメントという。 この地域も、「五日市憲法」で知られた五日市(現、あきるの市)に近い、多摩の自由民権運動の地だったのだ。 薬師池公園から鶴川へ向かって徒歩15分の所に、町田市立自由民権資料館がある。 中心人物は野津田生まれの石阪昌孝(天保12(1841)年~明治40(1907)年)で、地域の教育運動を組織し、自由民権運動の先頭に立った、町田をはじめ神奈川県下の自由民権運動の最高指導者の一人。 明治初年の初代神奈川県会議長、明治23(1890)年の国会開設で衆議院議員となり4期を務め、群馬県知事になった。 石阪美那、公歴姉弟の父で、長女美那は北村透谷との恋愛で知られる。

 北村透谷は、多感な青年時代に自由民権運動に参加し、25歳4か月の短い生涯での文学活動の原点には、自由民権運動への参加と離脱体験、多摩の人々との交流、石阪美那との恋愛があったという。 このあと行った、ぼたん園内には石阪昌孝屋敷跡の「民権の森」があり、「自由民権の碑」があって「透谷美那出会いの地」と刻まれていた。

 ぼたん園は、5月8日が「ぼたん・しゃくやくまつり」の最終日だったが、写真のしゃくやくスカーレット・オハラなどが、まだ美しく咲いていた。

 鶴見川に沿って歩き、最後の坂を上がって農家料理「高宮」にたどり着いた時には、相当へろへろになっていた。 お焦げのある筍ご飯を食べた。 この日の万歩計は、16,045歩だった。 (鶴見川については、流域を研究している岸由二慶應義塾大学教授の話を聴いて、「流域」からの豪雨水害防災・減災<小人閑居日記 2012. 11. 22.>を書いていた。)