頼朝の死、「落馬説」「怨霊説」2022/05/23 07:08

 『鎌倉殿サミット2022』、井上章一国際日本文化研究センター所長が、600年続く武家政権を開いた源頼朝の政権を、「広域暴力団 関東源組」と形容したのが、愉快だった。 爆笑問題の二人を舞台回しに、出演者は、他に野村育世女子美術大学附属高校中学教諭(北条政子の専門家)、坂井孝一創価大学教授(『鎌倉殿の13人』の時代考証担当)、近藤成一東大名誉教授・放送大学教授、本郷和人東大史料編纂所教授、佐伯智広帝京大准教授、長村祥知富山大学講師。

 最初に問題にされるのが、「頼朝の死」の真相。 源頼朝は、1199(正治元)年に51歳で死んだ。 編年体で書かれてきた『吾妻鏡』に、1198(建久9)年12月2日に頼朝は重臣の稲毛重成(妻は北条政子の妹)が相模川に架けた橋の落成披露に出かけ、その帰路に落馬したという記述があった後、三年間の巻が欠落している。 13年目に、落馬して病気になって死んだ、という記述がようやく出る。

 まず、よく言われる「落馬説」。 佐伯智広さんは、落馬+飲水重病(糖尿病だろう)。 長村祥知さんは、死の直前、出家した、と。

 つづいて「怨霊説」。 「異類異形の者現れ、雷の音に馬が驚き落馬」。 祟りそうなのは、(1)滅ぼされた平家、入水した安徳天皇。 (2)粛清された源氏。 叔父の源義広(1184年)、源行家(1186年)、木曾義仲(1184年)、義経(1189年自刃)、範頼(1193年)。 南北朝時代に成立した『保暦間記(ほうりゃくかんき)』は怨霊説。 野村育世さんは、頼朝が繊細な精神の持主なので、ありかも、絶えず女性問題もあった、と。 『盛長私記』(側近安達盛長の日記)は怨霊説だが、ニセモノ(佐伯智広さん)。 近藤成一さんは、怨霊説に賛成、土地開発が済み、所領配分の問題はなくなっていた。 井上章一さんは、一族の者を信用できなかったが、鶴岡八幡宮や永福寺など、怨霊対策はばっちりだった。

 『吾妻鏡』が三年間欠落しているのは、ふつう北条氏が編纂した(「北条本」)ので都合の悪い部分を隠したと言われるが、『吾妻鏡』は徳川家康が集めたもの(所持本に、黒田長政から贈られた北条氏直旧蔵本を合わせて1605(慶長10)年に出版した)。 その三年間は、頼朝の朝廷工作の時期で、1194年大姫の後鳥羽天皇への入内工作、1195年天皇の周りの貴族に砂金を贈っている。 新井白石は、家康が『吾妻鏡』を集めた段階で、頼朝好きの家康が頼朝のイメージダウンになる箇所を捨てさせたと書いている(本郷和人さん)。

 『吾妻鏡』は、承久の乱(1221年)後に編纂された。 承久の乱は、北条義時の鎌倉幕府と朝廷の全面戦争、幕府側が勝利し朝廷とのパワーバランスが変わった。 『吾妻鏡』、鎌倉幕府9代の内、源氏3代とのちの3代の6代しかない。

 「暗殺説」は、また明日。