鎌倉幕府の成立年代に諸説2022/05/24 07:09

 『鎌倉殿サミット2022』、「頼朝の死」の問題、「暗殺説」。 (1)朝廷による暗殺、(2)北条氏による暗殺が考えられる。 頼朝暗殺未遂事件があった、曽我兄弟仇討事件として知られるもの。 1193(建久4)年源頼朝が催した富士の巻狩で、曾我祐成・時致(ときむね)兄弟が父の仇工藤祐経を討った後、弟の時致が頼朝の御前めがけて走ったという。 坂井孝一さんは、鎌倉幕府のひずみ、御家人の不満が蓄積していた、という。

 1180(治承4)年の頼朝の挙兵は、坂東の武士たちが土地争いを続けていて、そのリーダーを求めたもの。 1185(文治元)年、頼朝は南関東を支配、平家を倒して、守護地頭を任命する権限を朝廷に認めさせた。 守護は治安維持、地頭は税の徴収。 1189(文治5)年、奥州合戦が終ると、武功による所領拡大のチャンスがなくなる。 1190(建久元)年、頼朝上洛、後白河法皇から権大納言、右近衛大将に任じられる。 武家の頭領として認められる。

 鎌倉幕府の成立年代に諸説ある。 従来は頼朝が征夷大将軍に任じられた1192(建久3)年、最近の教科書は守護地頭を任命する権限を朝廷に認めさせた1185(文治元)年。 近藤成一東大名誉教授は、1180(治承4)年、頼朝が挙兵し、山木兼隆屋敷を急襲し、4か月後に鎌倉入りを果たした、「東国国家論」。 佐伯智広帝京大准教授は、1190(建久元)年、頼朝が上洛し、後白河法皇に謁見し、右近衛大将に任じられた、「権門体制論」。 権門とは、公家、寺社、それに武家が加わった。 治天の君、天皇の下に、権門(公家、寺社、武家)の体制。

 「東国国家論」の近藤成一さんは、自由で開かれた関東。 東大、日大の学者は、関東の独立性。 「権門体制論」は京都大学など関西、井上章一さんは「学説が地場産業だ」。 野村育世さんは、早稲田で、公家の身分制度から自由なら、烏帽子を取るべき、と。 井上章一さん、俺たちだけが親衛隊というのが、西方の見方。 頼朝は後白河法皇を「日の本一の大天狗」と言った。 近藤成一さんは、「NHKは『鎌倉殿の13人』で、朝廷から認められた「鎌倉殿」を認めるんだ」と。

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