「明治十四年の政変」と矢野文雄2022/06/01 06:59

 早慶一回戦の27日、「「明治十四年の政変」をめぐる大隈重信と福澤諭吉」と題する、福澤諭吉協会の記念講演会が交詢社であった。 本来は総会の記念講演会なのだが、総会が書面で行なわれたので、講演会だけになったのだ。 講師は大日方(おびなた)純夫早稲田大学名誉教授、編著書に『自由民権運動と立憲改進党』(早稲田大学出版部・1991年)、『大隈重信関係文書』(全11巻、共編、みすず書房・2004~2015年)、『小野梓―未完のプロジェクト』(冨山房インターナショナル・2015年)があり、早稲田大学編『大隈重信演説談話集』(岩波文庫・2016年)・『大隈重信自叙伝』(岩波文庫・2018年)も編集された。

 「明治十四年の政変」は、その後の日本の歴史を左右した転換点と考えられる興味深いテーマで、これまでもいろいろ書いてきた。 今回のお話で、一番勉強になったのは、矢野文雄のことだった。 矢野文雄は、大隈重信に連なる早稲田の人だという印象が強く、そう思い込んでいたのだが、本来は慶應義塾の人だった。 1871(明治4)年慶應義塾に入り、1873年慶應義塾教師、1874年慶應義塾大阪分校長、1875年慶應義塾徳島分校長、1876年郵便報知新聞副主筆、1878(明治11)年7月大蔵省少書記官。

 大隈と福沢は、1873(明治6)年頃(大隈35、6歳、福沢38歳)、上野天王寺の薩摩人の宅で逢い、気に喰わぬ奴だと思っていたのが、話し込んでみると元来傾向が同じで、存外話が合い、一緒にやろうという訳になって、爾後大分心易くなった、と大隈の回想にある。 親しくなった福沢にその門下生を頼まれて、大隈の役所に、矢野文雄、中上川彦次郎、小泉信吉、藤田茂吉、箕浦勝人、加藤政之助、森下岩楠、犬養毅、尾崎行雄が出仕する。 1878(明治11)年初春、矢野文雄は福沢から、大隈大蔵卿の所に仕官するよう勧められた。

 「明治十四年の政変」の1881年3月、大隈重信は左大臣(有栖川宮熾仁)を介して意見書を提出したが、これを起草したのが矢野文雄だった(小野梓も関与したという説もある)。 イギリス式の議院内閣制(政党内閣制)を提起し、国会開設の日程を、明治14年憲法制定、16年初め国議院開会という急ピッチなものだった。

 4月、交詢社の『交詢雑誌』が私擬憲法案を掲載した。 起草者は、小幡篤次郎、矢野文雄、馬場辰猪、中上川彦次郎らだった。 イギリス流の議院内閣制=政党内閣制構想で、元老院(特撰議員+公選議員)、国会院(有産者による選挙)があった。 5月20日からは、『郵便報知新聞』(慶應義塾系)が、この憲法案を連載した。

 矢野文雄は、大隈重信意見書を起草し、交詢社私擬憲法案の起草者の一人だったのだ。

自由民権運動と国会・憲法問題2022/06/02 07:04

 大日方純夫教授の「「明治十四年の政変」をめぐる大隈重信と福澤諭吉」、「政変」の前提過程として、自由民権運動と国会・憲法問題を検討する。

(1)政府首脳部の構成と大隈の位置。
 [1881(明治14)年1月時点の大臣・参議] 太政大臣・三条実美。 左大臣・有栖川熾仁。 右大臣・岩倉具視。 参議・大隈重信(筆頭)、大木喬任/肥前2、伊藤博文、山県有朋、井上馨、山田顕義/長州4、寺島宗則、黒田清隆、西郷従道、川村純義/薩摩4。

(2)自由民権運動の展開。
 国会期成同盟の結成(1880(明治13)年3月)と国会開設請願書の提出(受取り拒否され、挫折)。 国会期成同盟第2回大会(1880(明治13)年11月)―2府22県(約13万人)の代表64人。 次回会議を1881(明治14)年10月12日に東京で予定していたが、政変の時期に重なってしまった。 戸数過半数の同意を獲得して参加すること、憲法見込案を持参すること(→憲法起草運動)。
政党結成運動の展開。
「自由党準備会」の結成(1880(明治13)年12月)と「地方の団結」(→「自由党」結成運動)。
憲法起草運動の推進。

(3)政府側の憲法問題
 元老院の国憲起草。
  1次案(1877(明治10)年10月)・2次案(78年7月)・3次案(80年7月)→80(明治13)年12月提出(不採択)。
 諸参議の憲法意見。
  1879(明治12)年12月山県-80年2月黒田-80年6月山田-80年7月井上-80年12月伊藤。 伊藤博文の意見書提出(起草者は井上毅)、伊藤の構想は「天皇の詔勅(「漸進の義」)による民心の鎮定。 81年3月大隈-81年5月大木。

いろいろな「私擬憲法」案2022/06/03 07:02

 大日方純夫教授の講演をはなれて、「私擬憲法」について見ておきたい。 「私擬憲法」で辞書や事典をみると、「明治前期に立憲制樹立を求めて私人が起草した憲法案。「私擬憲法」とは個人が私的に憲法について考えを練るの意味。」とある。 『日本大百科全書』などの「私擬憲法」で、その全容を確認しておきたい。 普通は自由民権運動のなかで、民間の個人やグループが自らの国家構想を同志や国民に訴えるために起草したものだが、政府部内の人間が当局者の参考に資するため試案したものもあった。

 政府部内では1873(明治6)年に青木周蔵が木戸孝允に委嘱されて起草したもののほか、西周、井上毅(こわし)、山田顕義らの諸案がある。

 民間の憲法案では、自由民権運動の高揚した1879(明治12)年から1881(明治14)年にかけて、民権各派が作成したものが多い。 改進党系に連なるものに、嚶鳴社案、共存同衆の「私擬憲法意見」、交詢社の「私擬憲法案」などがあり、いずれもイギリス流の立憲君主制を基礎とした議員内閣制を採用している。 なお、嚶鳴社案を継承しつつ千葉卓三郎らの五日市の農村青年グループが起草した「日本帝国憲法(五日市憲法草案)」は人権保障にきめ細かい配慮をしている。 自由党系には、立志社の「日本憲法見込案」、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」などがあり、君主の存在を認めているが、人民主権的な立場をとり、精細な人権保障規定のほか、地方自治、一院制(議会に強い権限を与える)、抵抗権の規定など特色のある構想を示している。 とくに植木案は、連邦制の採用や革命権を認める独自の内容を持っている。 また官権派新聞といわれた『東京日日新聞』(福地源一郎)の「国憲意見」は、国体擁護皇室中心主義を打ち出しているが、君民同治、責任内閣制など立憲主義的側面も示している。

 民権派の各案は、政府の欽定憲法構想に対抗して、国約ないし民約憲法の立場にたっている。 今日40種以上の私擬憲法が確認されている。

小野梓(大日方純夫さんの『日本歴史大事典』)2022/06/04 07:00

 小野梓についても、よく知らなかったので、見ておきたいと思ったら、『日本歴史大事典』の「小野梓」が、ちょうど大日方純夫さんの執筆だった。

 おのあずさ【小野梓】(1852(嘉永5)-1886(明治19)) 明治前期の法学者、政治家。土佐国幡多郡(はたぐん)宿毛村(現、高知県宿毛市)に生れる。号は東洋。1869(明治2)年東京に出て昌平学校に学び、1870年中国上海で欧米列強の進出のさまを実見した。1871年私費でアメリカに留学、ついで1873年大蔵省の官費でイギリスに留学して銀行・理財会計を学びつつ、法律学を学んだ。1874(明治7)年帰国後同志とともに文化啓蒙団体、共存同衆を結成して幹事となり、『共存雑誌』を発行、講談会、演説会の開催につとめた。また、ローマ法を研究して『羅馬律要(ローマりつよう)』を纂訳し、これが認められて1876(明治9)年司法少丞となった。以後司法省、太政官の書記官を歴任し、1880(明治13)年には新設の会計検査院の検査官となり大隈重信との関係を深めた。

 1881年10月「明治十四年の政変」で大隈とともに下野し、以後、大隈の下で活躍。立憲改進党の結成を推進して幹事役を務め、党務に奔走するとともに、東京専門学校(現、早稲田大学)の創立に尽力した。また、東洋館書店(冨山房の前身)を開業して出版事業にも手を染めた。この間、大著『国憲汎論』をはじめ、政治、法律、経済、教育などの各分野で旺盛な著作活動を展開したが、病没した(享年33歳)。<大日方純夫>

 大日方純夫さんは、講演「「明治十四年の政変」をめぐる大隈重信と福澤諭吉」の「「政変」後の政治過程」、「立憲改進党の結成をめぐる大隈と福沢」で、『小野梓全集』五の小野梓「留客斎日記」の詳細な記述を引用したのだった。 それは、また明日。

小野梓日記の立憲改進党結党過程と、福沢の構え2022/06/05 07:23

 「明治十四年の政変」後、「立憲改進党の結成をめぐる大隈と福沢」。 当時、政府の中でも政党をつくる動き、計画があったが、政変で挫折、在野から政党をつくることになった。 立憲改進党の結党過程が、小野梓「留客斎日記」(『小野梓全集』五)に詳細に記録されている。

 <第一段階>1881.10.25~1881.12.17 大隈・小野梓(+青年学徒)を中心とする結党構想の検討・成立。 この段階では三田派の動向は不明。

 <第二段階>1882.1.31~3.14 基本文書の起草から趣意書の発表まで。 旧高官層+嚶鳴社+三田派の連携。  1月31日、大隈邸集会、河野敏鎌・前島密等と我が政党のことを議す。小野、諸規則の起草を引き受ける。 2月17日、小野、宣言等を再校し、矢野文雄・肥塚龍に送る。矢野から手紙。島田・肥塚に返事。 3月14日、立憲改進党の宣言を新聞に発表。

(旧高官層…河野敏鎌(とがま)は、土佐藩士、新政府の文部卿をなどを務めたが、政変で下野。 前島密は、越後生まれ、幕臣前島家を継ぎ、民部省、大蔵省に勤務、郵便制度の調査のためイギリスに出張、駅逓頭(えきていのかみ)を務めた。 嚶鳴社…1874(明治7)年沼間守一らが法律講習会を創立、78年に嚶鳴社と改称した都市民権結社。島田三郎、肥塚龍、波多野伝三郎、末広鉄腸(重恭)、草間時福ら。 三田派…矢野文雄。)

 <第三段階>1882.3.17~4.16 結党の具体的な準備から結党式まで。  3月22日、小野、大隈・河野・前島と明治会堂へ行く。成島柳北・沼間守一・島田・矢野を訪う。 3月24日、小野、大隈を訪い話す。明後日、福沢を訪うことを約束。(だが、26日に記述はないらしい) 3月28日、小野、牛場卓造を慶應義塾に訪う。帰路、矢野・牟田口元学を報知社に訪い話す。(牛場卓造は、1874年慶應義塾卒業、1880年内務省に出仕、統計院少書記官。政変で罷免。 牟田口元学は佐賀藩士、戊辰戦争の官軍での働きを認められ、維新後、工部省、文部省、農商務省などに出仕するが、政変で下野。) 4月16日、立憲改進党結党式を明治会堂で挙行。大隈を総理(党首)とし、大隈が掌事に小野・牟田口・春木義彰を指名。

 ○立憲改進党結党と福沢の構え。 1882年1月24日、荘田平五郎宛福沢書簡。(『福澤諭吉書簡集』三) 「昨年来世状様々ニて、遂ニ或ハ本塾之本色を失ふの恐なきニあらず。塾之本色ハ元来独立之一義ある而巳(のみ)。敢て世ニ所謂政党抔を学ぶものニあらず。政党ニあらず、商人ニあらず、又官途熱進[心カ]之者ニもあらず。(中略)漫然たる江湖之目を以て之を観れハ、我義塾本部も、何か今之社会ニ対して求る所ある者之如クニ思はるヽハ、俗ニ所謂割ニ合はぬ始末ト存し、」