「金原」宛と全く同じ金森吉次郎宛書簡2022/06/17 06:59

 ところが、富田正文氏の遺品の中に、大正12年12月24日の岐阜日々新聞記事のコピーがあって、記事中の写真で書簡原本の存在が認められた。 内容も筆跡も「金原」宛書簡と、まったく同じで、ただ宛名だけが、金森吉次郎となっていた。

 金森吉次郎は大垣市在住、当時は岐阜県会議員だった。 大正12年9月1日の関東大震災に関連して、岐阜日々新聞は濃尾地震の折に福沢が『時事新報』に載せた救済に関する論説を11月中旬に連載した。 そして『時事新報』に論説が出た事情と、それを福沢に働きかけた金森吉次郎への福沢の返信を、12月24日の紙面で紹介したのだ。 『時事新報』は、明治24年10月28日の濃尾地震の報道と救援活動に、素早い対応をし、明治25年2月までに、地震に関する「社説」、「漫言」を28回掲載した。 『福澤諭吉伝』4巻48篇も、「罹災者を恤(めぐ)む」と題して、この逸話を金森吉次郎から聞き書きして紹介、福沢の返信書簡も掲載している。

 坂井達朗さんは、「金原」宛書簡と、岐阜日々新聞の金森吉次郎宛書簡写真を、同じ大きさに片面コピーして、透かして見ることを求めた。 宛名が違うだけで、ほかはほとんど重なるのだ。 そこで、坂井達朗さんによる疑問の解決と結論だ。 福沢は金森を金原と取り違えた。 中部地方の地震と山岳崩壊の水害問題とあって、とっさに旧友で治水家の金原を思い浮かべたか。 直ぐに気が付いて書き直す。 驚嘆すべき事実は、生涯に書簡を一万通は書いたと言われる福沢、手が決まっていて、文言、字形、字配り、共に寸分違わずに書けた。 金原宛を処分するのを怠った福沢、それが生き残って、世に出た。 偽書ではない。 福沢が書き損なった、誤文書。