6回結婚した傍若無人のヘンリー八世2022/06/11 07:01

『図書』表紙、杉本博司さんの「portraits/ポートレート」3月号は、ヘンリー八世だった。 ヘンリー八世に始まるシリーズの解説によって、私はイギリス王室のおどろおどろしい数奇な歴史を知ることになった。

 ヘンリー八世は、16世紀初頭に活躍したイングランド王、歴代の王の中でもその印象は際立ち、王様らしい王様として、傍若無人に、勝手気ままに生きて、その一生を全うした感がある、という。 歴史上、国王が教養あるインテリであるケースは稀なのだそうだが、ヘンリー八世はラテン語に通じフランス語は堪能、スペイン語、イタリア語もこなす、かつ作曲も手掛け、文章も物した文化人だった。 皇太子時代には長身でハンサム、スポーツは万能、乗馬、狩、レスリングと何でもござれ、白馬にまたがるそのお姿はまるで御伽噺に出てくる理想の王子様だったのだそうだ。

 しかし、父ヘンリー七世の逝去後王位につくや、父に仕えた重臣、リチャード・エンプソンとエドマンド・ダドリーを逮捕、二人を反逆罪で処刑する。 気に食わぬものを消していく政治手法(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の源頼朝のようだ)は、一生を通じて揺るがないのだそうだが、その手法は自身が愛した女性たちにも向けられることになる。 ヘンリー八世は、その好色ぶりで名を馳せたのだが、多くの妾を別にして6回も結婚している。 英国の小学校では、その王妃たちを韻を踏んで覚えやすく、Divorced Beheaded Died. Divorced Beheaded Survived.と教えるのだそうだ。 離婚、斬首、死。 離婚、斬首、生き延び。

 杉本博司さんの「portraits/ポートレート」は、4月号から、その6人の王妃を一人一人紹介しながら、その結婚の成り行きと、破綻の顛末が綴られていくことになる。

大国スペインから迎えたお姫様キャサリン2022/06/12 07:20

 ヘンリー八世の最初の妻キャサリンは、父がアラゴン王国の国王なので、キャサリン・オブ・アラゴン。 母はカスティーリア王国の女王で、このイベリア半島の二大強国の王と女王の結婚により、スペインは上げ潮に乗る。 長年続けられてきたレコンキスタと呼ばれる運動の末に、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐することに成功する。 当時のスペインは、英国よりはるかに大国だったのだ。 そんなお姫様を英国王室は三顧の礼を尽くして迎えた。

 実は、初めキャサリンを三顧の礼を尽くして迎えたのは、ヘンリーの兄、アーサー王子で、キャサリンは皇太子妃となる。 しかしその結婚は5か月後、アーサー王子の死とともに消滅してしまう。 アーサー王子は15歳半、虚弱体質で流行りの疫病にかかり、14歳のキャサリンを未亡人として残し、急逝したのだ。 困ったのは父のヘンリー七世だ。 莫大な持参金付きで迎えたキャサリンをスペインに返すわけにはいかない。 そこで苦肉の策として、弟のヘンリーに嫁がせることにしたのだ。

 ヘンリー王は近習の者に初夜の話を憚らず公言した。 「妻は処女であった」と。 結婚にはバチカンの承認が必要だった。 カトリックの信仰では妻は処女であらねばならない。 二人は20年以上にわたり仲睦まじく暮らした。 しかしキャサリンは死産、流産を、繰り返し、やっと生まれた王子も50日ほどで死んでしまう。 その中でただ一人、1516年に生れたメアリーだけが成長した。 後に恐るべきカトリック反動の女王となる、カクテルの名に残るブラディー・メアリーだ。 「妻は処女」発言は、次の結婚に至る紛争の火種になるのだが、それはまた明日。

 杉本博司さんの「キャサリン・オブ・アラゴン」の解説、あまりにも面白いので、みんな紹介してしまうことになった。

 ブラディー・メアリーは、ウオツカとトマトジュース、またはこれにレモンジュースを混ぜたカクテル。 カトリック教徒で、スペイン王フェリペ二世と結婚、旧教の復活を進め、多くの新教徒を処刑した16世紀の英国女王メアリー一世(メアリー=チューダー、在位1553~1558年)にちなむ。

英国国教会誕生の秘密2022/06/13 06:49

 杉本博司さんの「portraits/ポートレート」5月号は、「アン・ブーリン」。恋多き王、ヘンリー八世がなんとキャサリン王妃付の女官、アン・ブーリンに心惹かれてしまった。 黒い瞳の美少女、フランス語を巧みに操り、溌溂とした振る舞いに、魅了されたのだ。 浮気王が幾多の女官に手を出したのを見ていたアンは、作戦を立て、靡くように見せて一線を越えない焦らし戦法に出た。 王がアンに書いた手紙が現存している。 「私には一年以上も恋の矢が突き刺さったままだ……苦しみが募る」

 アンは、こうして正式な王妃としての結婚を王に迫った。 カトリックでは離婚は認められない。 追い詰められた王はキャサリン妃との結婚は無効だと教皇に申し出た。 自分と結婚した時、既にキャサリンは処女ではなかったと前言を翻したのだ。 初婚が無効なら、アンとの結婚が初婚になる。 無論、ローマ教皇はそんな虫のいい話を許可しなかった。 そこでヘンリー王は非常手段に出る。 ローマ教会を離脱して、自らを長とする英国国教会を樹立し、法皇領である修道院を没収してしまうという、経済的にも一石二鳥の手を打ったのだ。 恋心が国家の姿までも変えてしまった。

 晴れてアンと結婚してみると、望んでいた男の子は生まれず、またしても女の子だった。 後に英国を大国へと導くことになるエリザベス一世だ。 男子を産まないアンから王の心は急速に離れていった。 そしてなんと今度はアン王妃付の女官、ジェーン・シーモアに懸想してしまったのだ。 王は、私はアンに魔法をかけられて誘惑されたと言い出した。 そのほか姦通罪まで捏造されてロンドン塔に幽閉され、アン・ブーリンは公開処刑という悲惨な最期を遂げることになる。 愛は憎しみに容易に変わるものなのだ、と杉本博司さんはまとめている。 まったくすき間のない文章なので、ほとんど全部丸写しすることになった。 すみません。

 英国国教会の最大の特徴は、立憲君主制であるイギリスの統治者である国王が、教会の首長であるということだ。 現在は、エリザベス二世が1952(昭和27)年6月2日から、その地位にある。

 ヘンリー八世が1527年にキャサリン妃との結婚は無効だと申し出た教皇は、クレメンス七世。 神聖ローマ皇帝カール五世が、キャサリンの甥だったこともあって、複雑な政治問題となった。 1529年まで繰り返し行われた教皇への働きかけが失敗に終ると、ヘンリー八世は態度を変え、さまざまな古代文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。 1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに10万ポンドを支払うよう求めた。 これはヘンリー八世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきり示すことになった。 1531年2月11日、聖職者たちはヘンリー八世がイングランド教会の首長であると認める決議を行なった。 ヘンリー八世の言いなりだったトマス・クランマーがカンタベリー大司教の座に就くと、王の婚姻無効を認め、王はアン・ブーリンと再婚した。 教皇クレメンス七世がヘンリー八世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。 ヘンリー八世は1534年に国王至上法(首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。 やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され、修道院解散を断行、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。

自由民権の町田が東京へ<等々力短信 第1156号 2022(令和4).6.25.>2022/06/13 06:52

 「等々力短信」の前身、はがき通信「広尾短信」の創刊間もない第10号(1975(昭和50)年5月25日)に、こう書いていた。 「水道をひねって、ふと思うことがある。先人は便利なものを考え、よく作っておいてくれたものだ、と。▽前回美濃部さんが大量得票したというので、石原さんが選挙戦の初日に中央線に乗って出かけた三多摩は八王子も三鷹も明治前半まで神奈川県だったことを知る人は少ない▽勝海舟門下で長男小鹿の米国留学につきそって渡米し、経済学を修め、外交官を経て、日銀総裁、東京府知事を務めた富田鉄之助という人物がいた。明治24年からの富田の府知事時代、多摩川は上流の三多摩が神奈川県に属し、水道として使っている東京府では上流の管理の悪さからチフスやコレラが流行したりしていた。今でも縄張り問題は大ごとだが、富田は抜身を下げた相模の壮士にねらわれたりして、命をかけて三多摩の東京府併合に成功し、東京の水源を確保した。このことを『忘れられた元日銀総裁富田鉄之助伝』という本を書いた吉野俊彦さんの話で知った。」

 5月8日三田あるこう会で、東京都町田市の薬師池周辺を散策し、町田が自由民権運動の地だったことを知った。 中心人物は野津田生まれの石阪昌孝(天保12(1841)年~明治40(1907)年)で、地域の教育運動を組織し、自由民権運動の先頭に立った。 「ぼたん・しゃくやくまつり」の最終日だったぼたん園内に石阪昌孝屋敷跡の「民権の森」があり、「自由民権の碑」があった。 色川大吉さんが「五日市憲法」を発掘するきっかけになった北村透谷は、多感な青年時代に自由民権運動に参加し、25歳4か月の短い生涯での文学活動の原点には、自由民権運動への参加と離脱体験、多摩の人々との交流、石阪昌孝の長女石阪美那との恋愛があったという。 五日市(現、あきる野市)はかつて三多摩の西多摩郡、町田は南多摩郡に属していた。

 6月11日の『ブラタモリ』#205「東京・町田は、なぜ神奈川県町田と間違われるのか?」は、町田市が地図でも神奈川県に食い込み、バスはほぼ神奈川中央交通、インターチェンジは「横浜町田」、街には横浜銀行、図書館の郷土の棚に「神奈川県」、地質的にも神奈川県の石「トーナル岩」が出る、太閤検地で境川が国境となり、犯人は豊臣秀吉などと、やっていた。 そして最後に、石阪昌孝が登場した。 ぼたん園内の屋敷跡へ行き、自由民権運動に一生をささげた石阪が財産を使い果たし、柿の木一本しか残らなかったと。 安全な玉川上水の水を確保したい東京府の、三多摩併合問題が起きた。神奈川県知事の内海忠勝は中央集権の考えで、石阪昌孝らの盛んな自由民権運動の民衆の考えが目障り、多摩川と離れた南多摩郡まで東京へ追い出した、と。

マーク・トゥエイン『王子と乞食』のモデル2022/06/14 06:57

 杉本博司さんの「portraits/ポートレート」6月号は、「ジェーン・シーモア」である。 アン・ブーリンが公開処刑されてから、わずか11日後に、ジェーン・シーモアは王妃となる。 ジェーンは気性の激しかったアンとは正反対に、従順で優しい性格だった。 ヘンリー王の最も愛した妻として知られている。 しかし、その幸せは長く続かなかった。 ジェーンは王が渇望していた王子を見事に産んだ。 エドワード皇太子だ。 しかし、王子誕生から、わずか12日後、ジェーンは産褥熱で死んでしまう。 王妃となって一年半、愛おしい妻は自らの命と引き換えに王子を産んでくれたのだ、王は悲嘆に暮れた。

 こうして切望されて生まれた唯一の王子エドワードは、後にヘンリー八世崩御後、エドワード六世としてイングランド王に即位する。 その時わずか9歳だった。 摂政にはジェーンの兄が就き、サマセット公として実権を握るが、若き王は廷臣達の権謀術数に巻き込まれ、伯父は反逆罪で処刑され、次第に疲弊していった。 そしてたった15歳で崩御してしまう。

 19世紀になってエドワード王子の思い出は、マーク・トゥエインの小説『王子と乞食』として、再登場することになる。 堅苦しい王宮生活に嫌気がさしたエドワード王子が、衛兵に蹴散らされる乞食の子を門内に入れて、服を交換し、別世界を見るという話だ。 王と乞食、どちらが幸せかという痛烈な皮肉。 そのどちらにも人が最も必要とする自由はないのだ。 そう、杉本博司さんはまとめている。