福沢の「駄民権論者」批判2022/07/17 07:43

 14日の、富田正文先生の『考証 福澤諭吉』下巻の「明治十四年の政変」の章、「自由民権運動の経緯」の続き。 福沢はもちろん自由民権の主唱者で、熱心な国会開設運動の支持者ではあったが、明治13(1880)年ごろから非常な勢いで燃え広がった民権論者の中には、本家本元の福沢の眉をひそめさせるような軽佻過激な急進論もないではなかった。 ロンドンにいた小泉信吉、日原昌造宛書簡(明治14(1881)年6月17日付)に、こうある。

 地方処々の演説、所謂(いわゆる)ヘコヲビ書生の連中、其風俗甚だ不宜(よろしからず)、近来に至ては県官を罵詈(ばり)する等は通り過ぎ、極々の極度に至ればムツヒト云々を発言する者あるよし、実に演説も沙汰の限りにて甚(はなはだ)あしき徴候、斯くては捨置難き事と、少々づゝ内談致し居候義に御座候。

 福沢はこのような過激粗暴な論客を「駄民権論者」(明治14(1881)年10月14日付、井上馨・伊藤博文宛書簡など)と罵倒して憚らなかった。 自由民権運動は、それまでは士族が中心となって指導して来たが、新たに府県会議員として台頭して来た豪農豪商たちに運動の中心が移りはじめ、明治13(1880)年3月の愛国社第4回大会では、土佐の立志社中心の運営方針に対する不満が爆発して、参会者は愛国社大会とは別に、国会期成同盟の大会に切り換えるに至った。 こうして愛国社はもはや大衆をつなぎとめる力を持たず、同年末にその名が消滅してしまった。 そして紐帯を失った民権運動は次第に激化の様相を呈するものも出現するようになったのである。

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