馬場辰猪の自由民権運動2022/07/18 06:59

 自由民権運動で思いつくのは、福沢の門下生、馬場辰猪のことだ。 杉山伸也・川崎勝編『馬場辰猪 日記と遺稿』(慶應義塾大学出版会・2015年)などから、2016年にくわしく書いた。

杉山伸也・川崎勝編『馬場辰猪 日記と遺稿』<小人閑居日記 2016.7.9.>
啓蒙、自由民権の時代から、渡米決意へ<小人閑居日記 2016.7.10.>
「外からの改革」と馬場辰猪の客死<小人閑居日記 2016.7.11.>
「史論」、帰納法を用いた人民の歴史<小人閑居日記 2016.7.12.>
馬場辰猪作の幕末維新物語「悔悟」<小人閑居日記 2016.7.13.>
「悔悟」の意味するもの<小人閑居日記 2016.7.14.>
馬場孤蝶の言う「訳語の不足」<小人閑居日記 2016.7.15.>

 馬場辰猪は、実質約7年間のイギリス留学によって、思想の中核となる人権の尊重や自由・平等の精神が自然法や自然権論からみていかに基本的なものであり、かつ「公議輿論」がいかに重要であるかを原体験として知った。 明治11(1878)年5月、28歳で帰国した日本は、まさに自由民権運動が始まろうとしている時期だった。 馬場は帰国後、明治13(1880)年7月まで、共存同衆(および三田政談会)、それ以降は国友会での講演を中心に活動する。 共存同衆は、馬場より先に帰国した小野梓が、ロンドンで組織した日本学生会を基盤に創立した学術啓蒙団体。

 馬場の思想の中核は、天賦人権論による「自由・平等」、「人民」、「公議輿論」の三つに集約できる。 明治11(1878)年9月の「社会論」は馬場の基本的姿勢が凝縮された、馬場の日本における決意表明だ。 圧制政府は人為的に偏重している。 それは「平均力」(重要なのは「公議輿論」)が作用して打破される。 明治12(1879)年5月に公布された政府官吏の民間での政治演説禁止の太政官通達は、共存同衆の活動に致命的な打撃を与えた。 小野梓をはじめ英国体験を共有した共存同衆の友人たちが、政府に反発を感じながら地位に汲々とするなかで、あくまでも在野にあって「民心之改革」につとめ、「不羈独立」の人材を育成し、「社会共同ノ公益」に資するための政治活動をめざす馬場にとって、共存同衆はもはや拠点としての意味を失っていた。 こうして馬場にとって、明治13(1880)年が啓蒙活動から政治活動への転機となった。

 明治14(1881)年10月11日、自由民権運動の高揚に直面していた政府は開拓使官有物払下問題の鎮静化をはかるために、10月18日開催予定の自由党結成大会に先立って国会開設の詔勅を発表するとともに、参議大隈重信を罷免した。 この「明治14年の政変」で大久保亡きあとの明治政権は、薩長藩閥中心の色彩のつよい体制に再編され、在野の民権運動の側でも政党化の動きが急速に促進され、自由党の結成につづいて、明治15(1882)年4月には大隈重信を中心とする改進党が結成された。 馬場の政治的スタンスは、藩閥政府による言論・出版や集会の自由にたいする姿勢と真向から対立するもので、馬場が自由党に参加した最大の理由はここにある。

 日本国内の政治活動の閉塞的状況のなかで、馬場みずからが新聞・演説で、英国、米国の輿論の賛成を得、自国人民の輿論を発達喚起すること以外に道はなかった。 しかし英国の世論には失望し、自由の空気みなぎると思える米国への期待が高まる。 日本で「人民」は動かず、民権派は相互に非難しあって自滅、日本学生会、共存同衆、自由党は、もはや期待できない。

 馬場が大石正巳とともに逮捕され半年余拘留された、いわゆるダイナマイト購入事件は不慮の事故で、明治19(1886)年6月の渡米は単なる「亡命」ではなく、もっと積極的な意味を持つものだった。 国際世論を背景に、明治政府の「外からの改革」の必要性の不可避なことを悟るにいたっていたのだ。

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