北杜夫、創作の秘密2022/07/26 06:58

 ルーム・サービスで朝食を頼み、食事しながら彼女の身上話に、沈んだ気持で耳をかたむけた。 父親は戦争で死に、母親は東独にいるという。 もう別れるより仕方がなかった、それでも愛想のつもりか、アキラと会えて嬉しかった、などと言った。 昨夜あの老娼婦に、幾らくらいやったらよいかと訊いたとき、素人だから特に金をやる必要はあるまい、ちょっとしたものでも買ってやればいいだろうとの返事だった。 もちろん間宮は金を与えるつもりでいたが、しかし、今は金をやりたくなかった。 それでも、金が要るかと訊いてみると、彼女は何遍も首をふった。 出しても受け取りそうにない顔つきだった。

 帰り仕度をしていて、ベッドのわきになにか落ちているのを間宮は拾い上げた。 彼女の身分証明書だった。 女はトイレットに行っていたので、彼はなにげなくポケットに入れた。 そして部屋を出るときにも、友人のするような軽い抱擁のためか、旅人の感傷がつよくおしのぼってきたためか、それを返すのを忘れてしまっていた。 或いは間宮の無意識のなせるわざで、このままずっと別れてしまいたくないという気持がひそんでいたためかもわからない。

 バス停まで送っていく途中、彼女が小綺麗な雑貨屋のショーウィンドーを覗きこんだ。 「なにか欲しいものある?」 女は少しためらって、低い、すまなそうな声で、実はストッキングを欲しいと長いこと思っていた、と答えた。 間宮は店にはいって、女の言うとおりにありふれたストッキングを二つ買った。 一つでいいというのを、二つ買った。 一つ6マルクだった。 バス停で、切符代として1マルクだけ渡した。 女はまた低く「ダンケ」と言った。

 物語は、身分証明書をめぐって、展開する。 間宮は三日ほど所用のため忙しく過ごし、ベルリンにきた表向きの目的はそれで終った。 その夜、アルムートに出会った裏通りに行き、見覚えのあるバーに入った。 あの気のいい老娼婦がいて、あの晩のことをしつこく訊き、あんたの彼女はなかなかいい、ぜひもう一度会ってやれ、収容所に尋ねて行け、と言った。

 ぜひそうしなければならぬような気持が湧いてきて、翌日、収容所に行くと、アルムート・マイスナーは身分証明書を持っていなかったために、警察に留置されていたのだ。 間宮が、彼女の救出のためにどう動き、どんな心境だったか、循環気質のずんぐりした私服警官が「日本に連れて帰る気か?」と訊いたりする、物語の結末は、ぜひ「星のない街路」で読んでいただきたい。

 北杜夫は「あとがき」で、昭和33年執筆のこの作品について、こう書いている。 「私には実際に行ったことのない外国のことを、人の話とか何枚かの写真とか本とかによって空想して書く癖もある。「埃と燈明」からしてそうであった。これはアメリカに留学していた先輩の心理学者がメキシコからくれた一枚の絵ハガキが触媒となり、のちに帰国した彼からいくらかの話を聞き、図書館へ行って二冊のメキシコの本を借り、それだけの知識ででっちあげたものだ。「星のない街路」も同じ成立を辿っている。同じ心理学者、すなわち故相場均氏がくれた一枚の絵ハガキと、彼の体験談にフィクションをまじえて書いた。「近代文学」昭和33年9月号に発表した。」