「悪魔は出なかったの?」と、孫娘は訊いた2022/07/31 07:30

 北杜夫「静謐」のつづき。 食事がすむと、ノエミイは、それじゃ夕方まで部屋をとって休みましょう、って。 あたしも自分の部屋へはいって少し横になりましたが、とても眠れるものじゃない。 少し外に出てみる気になって、ショールをまいて出ていったのだけれど、霧のたちこめた町の、崩れかけた石塀や古い破風などまでがこちらを窺っているような、町そのものが生きていて、あたしを監視しているような気さえしてくる。 そそくさと宿へ帰ると、急に疲れが出て夕方までうとうとしてしまった。

 夕食はお午と同じような顔ぶれで、やはりひっそりとしているのだが、ひややかな連中の中からそうっと熱っぽいものが湧いてくる、みんなの期待の高まりのようなものが、こちらに伝わってくるのだねえ。

 食事がすむと、ノエミイが御招待ですよ、とあたしを大きな部屋にひっぱってゆく。 食堂にいた連中が、酒盛りをはじめていた。 あたしにも無理矢理のませるのですよ。 あたしはお酒をのまされて、気持がわるくなってきた。 あの葡萄酒ってのはおまえ、人間の血がはいっているのですよ、たしかに血の味がしましたよ。

 部屋は煙草のけむりと人々の熱っぽい息でもやつくようになってきた。 誰かが立上って、わからない言葉で叫びだす。 ノエミイの言うには、なんじ生けるうちはなんじの欲望にしたがうべし、という意味だそうで。 するとみんなが口々に叫びだした。 英国人らしいのが、ウイッチのサバスヘ、ノエミイが、ソルシェールのサバスヘ、妖巫(ようふ)の安息日、と叫ぶ。 おまえねえ、一年に一度、悪魔がいろんな怪異なものを呼ぶ集まりなんだそうよ。 サバヘ、サバヘ、ってみんなが叫んで、卑猥な笑声と共に部屋を出て行きましたよ。

 あたしは、ノエミイにぐいぐい手をひっぱられて、馬車に乗せられ、荒れ果てたお城へ行った。 黴くさいひいやりとした空気の淀んでいる城館で、陰惨な、物凄い気配が立ちこめている。 ホールの右手の一番奥の部屋にあたしたちははいりました。 みんながハシバミの枝を右手に持って、太い蝋燭を二本石の床に立て、その火が大きくなってくる。 あとで知ったのだけれど、悪霊たちの支配者の輩下を呼びだして契約に署名しようという儀式だった。 アラビア人が唱える呪文が、冥府の底からの声のようにひびくのだよ。

 「アクマは出なかったの?」と、千花は訊いた。 いいえ、ちゃんと出ましたよ。 その部屋でまた酒盛になって、あたしも無理矢理飲まされた。 飲まないと、みんな怒るのでね。 頭の芯がぐらぐらして、朦朧となって、あとはなにがなにやらわからなくなった。

 気がつくと、宿のベッドに横になっていました。 あたしが目をさましたのは、そこに悪魔がいたからです。 黒い悪魔があたしの体をいじくっていたからです。 あたしは恐怖で躰がこわばって、声も出なかったね。 すると悪魔はあたしの体をおしひらいて、そこへわけいってきました。 悪魔のそれは物凄くって、あたしはその痛みに思わず小さく叫んだよ。

 と、あたしにのしかかっているのは悪魔ではなく、あのアラビア人だということがわかりましたよ。 あたしは必死にはねのけようとした。 しかし相手の力の強いこと、それこそ万力のようで、あたしは喘ぐより手がなかったね。 するとアラビア人めは、いろんなふうにあたしをいじくりはじめた。 それがねえ、おまえ、それまであたしが想像もしたこともない仕方なのだよ。

 あたしはうめきましたよ。 だがね、それはアラビア人ではなく、悪魔だったのです。 それでなければおまえ、あんなふうに……。 熱い波がいろんな方向からうち寄せてきて、あたしはまったく溺れてしまったね。 あれは本物の悪魔でした。

 さあ、おばあさまのお話はこれでおしまい。 でもねえおまえ、むかしおまえのおじいさまはあたしのことを、お床の中では石のような女だとおっしゃって、ほかの女のところへお出かけになっておしまいになったものですが、そのときからあたしは石の女ではなくなったのだよ。 悪魔のおかげでねえ。 それからあたしはときどき悪魔を呼び出すようになったのだよ。 オホホホ、ホホ。 刀自はわらった。 いたくなまめかしい声で。 それから入歯を外し、水を入れた容器の中に収めた。

 千花はわが家に戻った。 父の信也は、「おふくろも変わったねえ、いよいよ御陀仏とちがうか」「それにしても、千花に一体どんな話をしてるのだろうね」と、妻に言った。 三弥子は無関心に言った、「カチカチ山とか、花咲じじいのお話でしょう、どうせ」

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