吉村昭さんの文学漂流、同人雑誌は「ボトル・レター」2022/08/25 06:59

 8月10日の「虚子、漱石の『道草』を於糸サンに残す」で、虚子が「船中から酒の空瓶を海中に投じて其の漂着する先を見たいと思ふやうな興味が於糸サンの未来と共に此冊子の未来にもあるのである。」とした、「ボトル・レター」が、谷口桂子さんの『吉村昭の人生作法 仕事の流儀から最期の選択まで』(中公新書ラクレ)にも出てきた。

 吉村昭さんには、長い苦節の時代があった。 学生時代から同人雑誌に参加し、たまに商業雑誌から声がかかっても、原稿は掲載されるとは限らなかった。 そもそも筆で生活しようとするのが間違いだという。 同人雑誌は、絶海の孤島から手紙をビンに入れて海に流すようなもので、誰が読んでくれるかわからない。 原稿を書くことで生活しようとすると、生活のために不本意なものも書かなければいけなくなる。 そうしているうちに自分の方向性を見失ってしまう。 放送劇を頼まれたのは一作限りとし、週刊誌の小説仕立ての連載は断った。 小説を書くというひと筋の道をひたすら歩んできたが、それを引き受けると違う道を歩むことになる。

 妻の津村節子と夫婦で、交互に芥川賞、直木賞の候補になったが、吉村昭は受賞には至らなかった。 そんな状況で、子供も二人生まれた。 39歳で太宰治賞を受賞するまでの十数年間、窮乏生活が続いた。 家族の生活をどうするのかが切実な問題だった。

 「……私は、生活について真剣に考えた。家族の生活をかえりみず小説を書くなどという、甘えた考え方は唾棄すべきで、そのような生き方からは勁(つよ)い文学が生れるはずはない。夫として子の父として、妻子に生活の資(かて)をあたえ、自分に残された時間を小説の執筆に傾注すべきであった。」(「会社勤め」『私の文学漂流』)

 結局、兄の会社で働くことになった。 再び勤めに出なければいけなくなったことが、情けなくもあり、恥ずかしくもあったが、自分が定めた道を歩くためなのだと自身に言いきかせた。

 吉村昭の最初の作品集『青い骨』は、それまでに書いた短編小説を一冊にまとめて自費出版したらとすすめられたものだった。 師の丹羽文雄が「此の人は伸びる才能を持つてゐると思つた」と序文を寄せている。 しかし出版後の反響はなかった。 その頃のことを、吉村は絶海の孤島から手紙をビンに入れて海に流すようなものと言ったが、津村は、浜辺で砂の上に文字を書き、波が消し去ってしまうような気持ちだったという。

 夫婦で小説を書くのは地獄だなと、言われたのもその頃だった。 夫婦で交互に賞の候補になり、二度あることは三度ある、七転び八起きなどと、メディアに書き立てられたが、二人は死にもの狂いだった。 「おれは、このままでは終らない」「私もこのままでは終らない」と、夫婦がいちばん高揚していた時期だ。 吉村は、「後世に残る日本現代文学を象徴するような作品を書き続けたいのだ」と志も目標意識も高かった。 二人は同志であり、戦友であり、ライバルだった。