津村節子・吉村昭ご夫妻の青春2022/08/26 08:06

 2014年に津村節子さんが、『図書』の一月号から「果てなき便り」を連載していて、こんなことを書いていた。 二回にわたって、再録する。

     津村節子・吉村昭ご夫妻の青春<小人閑居日記 2014.4.9.>

 作家の津村節子さんが、『図書』の一月号から「果てなき便り」を連載している。 2006(平成18)年に亡くなった夫の吉村昭さんと、結婚前後に交わした沢山の手紙やはがきが出てきたところから、エッセイは始まる。 津村節子の北原節子さんは、戦時中に女学校生活を送り、3年生からは防空訓練、救急看護訓練、農場作業などで授業時間を割かれ、4年生からは勤労動員で軍需工場へ行き、昭和20年3月には、5年生と一緒に繰上げ卒業になったから、一番学力のない年代だという。 敗戦後、疎開先の埼玉県入間川町(現・狭山市)から目黒のドレスメーカー女学院に通い、入間川で洋裁店を開き、大繁盛した。 だが、新聞で学習院に短期大学部が設立される記事を見て、高校卒業の認定試験を受けるなど一年間受験勉強をして、翌年二期生として入学する。 五つも年下の人たちと一緒だった。

 早速、文芸部を作って、短大の部長岩田九郎教授(俳文学)に相談し、『はまゆふ』というガリ版刷りの雑誌を出して、小説を書いた。 学習院大学の文芸部にも入りたいと、岩田教授に申し出ると、紹介してくれたのが文芸部の委員長の吉村昭さんだった。 吉村さんは高等科の時に結核にかかって、東大医学部附属病院で胸郭成形術を受け、左胸部の肋骨5本を切除した体で、昭和26年4月から大学に通い始めていた。 それは節子さんが短大に入学した年で、吉村さんは24歳、節子さんは23歳だった。

 大学の文芸部には『學習院文藝』という雑誌があり、やはりガリ版刷りだったが、ガリ版だと読んで貰えないので、吉村さんの発案で古典落語研究会を再々催して、資金を集め、活版にして『赤繪』と改題したのだそうだ。 私の興味を引いたのは、3月号に詳しい話が出てくる、この落語研究会である。

 吉村さんは短大の文芸部員の父が耳鼻咽喉科の医院を開業していて、そこへ噺家たちが治療に来ていることを聞き、その院長に頼んで古今亭志ん生と春風亭柳好を訪ね、出演の承諾を得て来る。 一般の私立学校として公開されても、学習院には皇族・華族のための学校というイメージが残っていたので、吉村さんの出演依頼に噺家たちは、呆気にとられていたという。 出演料は2千円という安さで、これしか出せないと謝って頼んだ。 学生課では、講堂で落語会なんてとんでもないと、一蹴されたが、吉村さんが安倍能成院長に掛け合いに行き、誰が来るのだと聞かれて、志ん生と柳好ですと言ったら、「本当にそんな人たちが来るのか」と先生が驚いたと、得意になって部員に報告したという。 節子さんも、短大で切符を売りまくり、講堂は満員になった。 古典落語研究会と称するからには、初めに一応岩田教授に古典落語についての話をしてもらったそうだ。