「善悪すべてつつみこんでなお静かなる」茶碗2022/09/11 07:28

 昨日辻村史朗さんが18歳の時、日本民芸館で偶然、大井戸茶碗「山伏」に出会い、深い感動を受けて、人生を大きく変える、と書いたけれど、それを「器と心」に辻村さん自身がこう記しているそうだ(確か、『日曜美術館』でもテロップが流れた)。

それはむしろ
茶碗というより
人間と相対しているような状態(略)
人の手で作られたものが
作った人の手をはなれ(略)
時代をとわず変わることのない
その内なる流れを
そっくり一つの器に含みこんで
表現し得るということに
おのずと 私がいったい何を
どうしようとしているのか
なぜこのように生きているのか(略)
質問の答えを
見出せるようにおもうのです。

 日本民芸館の「民芸」は、大正末期、柳宗悦(むねよし)の造語で、「庶民の生活の中から生まれた、郷土的な工芸。実用性と素朴な美とが愛好される。民衆的工芸。」 その作り手は無名の人で、当然、大井戸茶碗「山伏」も無名の陶芸家のつくったものである。 そもそも井戸茶碗は、15~16世紀頃、朝鮮半島で田舎の農夫が雑器としてつくっていたありふれた器だった。 けれども、「わび茶」の美意識にかなうといって千利休が特別に見出したことから、日本で茶道具として使われるようになった歴史がある。 大井戸茶碗は、井戸茶碗の中でも大ぶりで堂々としたつくりのものを指す。

 「意識をぬけえたところにある、あの大井戸茶碗が表現しえた大母性大慈悲心、善悪すべてつつみこんでなお静かなるもの、そういう状態が、私の手仕事である土いじりの中でも表わしえたらと、つまりは何を作りたいのかといえばこの心の状態以外にありえないようにおもうのです。」  (辻村史朗「器と心」)