女中ふみさんの涙に、映画の力を知る ― 2022/10/21 07:20
『続・遥かなる山の呼び声』のラストで、妹の加奈が電話に出て、泣きながら「おめでとう、本当におめでとう」と言う所で、見ているこちらも目の中にうるむものがあった。 山田洋次さんが月に一度、朝日新聞beで『山田洋次 夢をつくる』を語り下ろしている(構成・林るみ記者)。
山田洋次さんは、満州事変の始まった1931(昭和6)年の生まれ(私より10歳上)、お父さんが満鉄(南満州鉄道)に勤めていたので、2歳のときから敗戦まで満州(中国東北部)で育った。 奉天(現・瀋陽)、ハルビン、新京(現・長春)、また奉天、東京に戻って大連、と平均2年で転校、転々としていたそうだ。 満州の日本人は「植民者」であり、「内地」と言われた日本と比べると、いい生活をしていて、多くの家に女中さんやボーイさんがいた。 子ども心にそれが当たり前と思っていたという。 満州の山田さんの家にも、ふみさんというまだ二十歳前の女中さんがいた。 長崎・五島列島の出身で漁師の娘さん。 洋次さんが、ふみさんと一緒に映画に行くことになった。 彼女が長谷川一夫・李香蘭主演のメロドラマ『白蘭(びゃくらん)の歌』を見たいというので、お母さんが「洋次、一緒に行きなさい」と言った。 子供が付いていたほうが安全だろうと思ったからだ。
併映が田坂具隆監督の『路傍の石』。 貧しい農村の少年が身売りをされて、東京の商家で叱られながら働く悲しい物語を、満州育ちの洋次さんが、日本の風景が珍しいなとぼんやり見ていて、ふと気がつくと隣のふみさんが泣いている。 ぼろぼろと涙をこぼして、色白のかわいいほっぺたが涙にぬれ、スクリーンの反射で光っていた。 洋次さんはびっくりした。 「映画を見て泣くことがあるんだ」
洋次さんは映画を見て興奮したり笑ったりしてはいたけれど、映画は人を泣くほど感動させることもあるんだということを初めて知った。 同時にこの映画は「ふみさんの映画なんだ」と気づいた。 ふみさんにとって『路傍の石』の貧しい少年は兄弟だった。 彼女には自分とは違う世界があるのだとわかった。
山田洋次さんは、映画監督になったとき、ふみさんのための映画をつくろうと思った。 ふみさんがほめてくれるような、ふみさんを感動させるような映画をつくるのだと。 そして、いまもずっとそう思っている、という。
(『山田洋次 夢をつくる』5月21日(2))
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