英国の「局外中立」推進、プロイセンの蝦夷植民地計画2022/11/12 07:02

 NHKスペシャル「新・幕末史 グローバル・ヒストリー」第二集(10月23日放送)は、「戊辰戦争 狙われた日本」。 イギリスは、徳川を見限り、新政府を支持する方針を固めた。 ヴィクトリア女王は天皇宛書簡で、新政府承認の方針を示した。 一方、徳川はフランスの支援を受ける。 強国同士のパワーゲームの中、1年5か月に及ぶ泥沼の内戦が始まる。

 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いで、戊辰戦争が始まる。 これまで近代兵器を有する新政府軍が、時代遅れの徳川旧幕府軍(大政奉還後は、旧幕府)を圧倒したと伝えられてきた。 しかし、実際の戦いは旧幕府軍の凄まじい砲撃の跡が、妙教寺に残っている。 四斤山砲の砲弾(フランスで開発されたばかり)が、位牌棚から飛び込み、柱を貫通している。

 イギリスのパークス公使は、2月16日各国代表(仏、米、プロイセン、蘭、伊)と6か国会談、「局外中立」の宣言を提案する。 仏、蘭は旧幕府との関係が密で難色を示したが、3日間の議論で、パークスは公使たちにとって最重要の使命である自国民の保護を持ち出した。 4か所の貿易港の内、長崎と兵庫は新政府、横浜と箱館は旧幕府が支配しており、一方を援助すれば、反対勢力が外国人の保護をやめる恐れがあるとした。 アメリカが「局外中立」の賛成を表明、6か国は共同で「局外中立」を宣言した。

 戦局は大きく変わった。 アメリカは、最新の軍艦の引き渡しを凍結した。 フランスは、軍事顧問団を撤退させた。 慶喜は、新政府への恭順を決意した。 1968年5月、江戸無血開城。

 東北、新潟の諸藩が、奥州越列藩同盟を立ち上げる。 もともとは新政府と対立する会津・庄内藩を守るための軍事同盟だったが、明治天皇につながる皇族を擁立(吉村昭『彰義隊』から、『彰義隊』と「輪王寺宮」能久親王<小人閑居日記 2022.8.31.>を書いた)、強力な地方政権へと姿を変える。

 プロイセン(後のドイツ帝国)が動き始める。 首相のオットー・フォン・ビスマルクが鉄血政策をとり、軍備を増強してヨーロッパで領土を拡大していき、東アジアに目をつけた。 駐日プロイセン代理公使のマックス・フォン・ブラントは、1868年「東北の同盟軍は、新政府軍に対して勝利を収めるだろう」と報告。

 激戦地だった新潟県朝日山で、小千谷市の協力を得て、発掘調査したところ、エンフィールド銃(ミニエー銃)の弾が出土した。 南北戦争の主力兵器だ。 プロイセンはイタリアなどとともに、新潟を貿易港として開港させる。 一人の商人が、ライフルおよそ5千丁の多数を売った。 長岡藩家老河井継之助はガトリング砲(機関銃)を使ったが、日本に3門しかなく、そのうち2門が列藩同盟の手にあった。 戊辰戦争は、近代戦になっていた。

 プロイセンには、北への野望があった。 ブラント報告「蝦夷の気候は、北ドイツと似ており、米、トウモロコシ、ジャガイモ、あらゆる農作物が成長し、150万人のドイツ移民を受け入れることができる。植民地にふさわしい。」

 幕末、幕府の直轄領だった蝦夷の警備を担ったのが、会津や庄内など東北諸藩だった。 ブラントの元通訳、ハインリッヒ・シュネルが東北に潜入、武器取引を通じて、列藩同盟の信頼を得る。 会津と庄内に、軍資金を貸し付け、代償として、蝦夷の権利を譲り受けようとする。 ビスマルクは、ブラントに交渉の権限を与えた。(1868年プロイセン海軍の機密文書)

 新政府に肩入れするイギリスのアーネスト・サトウは、新政府軍の新潟港海上封鎖を支持する。 1868年9月、新政府軍は海上封鎖し、電撃的な上陸作戦を決行する。 新潟を守備していた列藩同盟の部隊は壊滅する。

 11月6日、会津藩が降伏。 まもなく東北全土が新政府軍に下る。 プロイセンの蝦夷植民地計画も消えた。