甲鉄艦奪取を狙った宮古湾海戦2022/11/15 07:08

 旧幕府海軍の作戦計画は、斬り込みのための陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に改めて甲鉄艦(「ストーンウォール」)に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠しようとするものだった。 回天には総司令官として海軍奉行・荒井郁之助、検分役として陸軍奉行並・土方歳三らが乗船、元フランス海軍のニコール(計画立案者)、コラッシュ、クラトーら、斬り込み隊として神木隊・彰義隊など100名の陸兵もそれぞれ3艦に乗り込んだ。 艦長は回天・甲賀源吾、蟠竜・松岡磐吉、高雄・古川節蔵(福沢諭吉と関係の深かった岡本節蔵、古川正雄で、明日詳述する)。

 3月22日、寄港地の鮫村(八戸市)から宮古湾を目指して南下するが、その夜暴風雨に遭い、3隻は離散する。 24日、嵐がやや静まり、回天と高雄は合流できたが、高雄は機関を損傷していて修理を要し、2艦は宮古湾の南、山田湾(岩手県山田町)にアメリカ国旗とロシア国旗を掲げて入港した。 蟠竜は互いを見失った時の取り決めで、鮫村沖に待機していた。 山田湾で、新政府艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港しているという情報を得て、回天と高雄の2艦で計画を実行することにした。 高雄が甲鉄艦を襲撃し、回天が残りの艦船を牽制するという作戦で、決行は25日夜明けとした。

 だが、宮古湾に向かう途上、高雄が再び機関故障を起こす。 しかし航行は可能だったので、まず回天が甲鉄艦に接舷して先制攻撃し、高雄が途中で参戦する作戦に変更した。 午前5時頃、回天は宮古湾に突入を敢行、新政府艦隊は機関の火を落としており、アメリカ国旗を掲げた回天の接近に注意を払わなかった。 日章旗を掲げ甲鉄艦に接舷すると、ようやく隣で唯一警戒に当たっていた薩摩船籍の春日から敵襲を知らせる空砲が轟いた。

 奇襲には成功したが、回天は舷側に水車が飛び出している外輪船で横づけできず、小回りが利かなかったため、甲賀源吾艦長の必死の操船にもかかわらず、回天の船首が甲鉄艦の左舷に突っ込んで、乗り上げる形になってしまった。 高い位置の、狭い船首から飛び移ることになり、斬り込む人数が限られ、またガトリング砲など強力な武器の格好の標的になってしまった。 回天甲板上で倒れる兵が続出し、ニコールも負傷した。 春日を始め周囲にいた新政府軍艦船も、次第に戦闘準備が整い、回天は敵艦に包囲されて、集中砲火を浴びる。 甲賀源吾艦長は腕、胸を撃ち抜かれてもなお指揮をとっていたが、頭を撃たれて戦死。 形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら舵を握って甲鉄艦から船体を離し、回天は宮古湾を離脱した。 甲鉄艦に斬り込んでいた野村利三郎ら数名は、撤退に間に合わず戦死。 この間、わずか30分だったという、明治2年3月25日(1869年5月6日)の、宮古湾海戦である。

 新政府軍は、直ちに追撃を開始、回天は撤退途中に蟠竜と合流して26日夕方には箱館まで退却したが、機関故障を起こしていた高雄は甲鉄艦と春日によって捕捉された。 艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は、田野畑村付近に上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降している。

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