岡本節蔵(古川正雄)と福沢諭吉2022/11/16 07:11

 昨日、参考にした資料によって高雄艦長・古川節蔵と書いたのは、福沢諭吉と関係の深かった岡本節蔵、古川正雄である。 天保8(1837)年3月、安芸国山県郡小田村(現広島県高田郡甲田村)の庄屋岡本家に生まれた。 幼名亀五郎、通称周吉、また節蔵といった。 のちに福沢の世話で旗本古川志道(ゆきみち)の養子となり、維新後に正雄と改名した。

 はじめ広島藩士山口実造の塾に漢学を学び、安政3(1856)年8月適塾に入った。 福沢が江戸出府にあたって家来一人分の手当を与えられ、同行者を募った時にこれに応じたと、『福翁自伝』「大坂を去て江戸に行く」にある。 江戸では門弟第一号として福沢に学ぶとともに、塾生の指導にもあたり、元治元(1864)年頃まで塾長を務めた。 福沢が咸臨丸で渡米した時には、翻訳途中の『万国政表』の完成を委ねられた。

 福沢は岡本節蔵の人物を認め、これを広島藩がしかるべき役職に取り立てるように運動したが、広島藩は藩士ではないという理由で福沢の推薦を受け付けなかった。 福沢は、広島藩はあとで文句はいわないことと釘をさしておき、下谷の旗本古川家の婿養子に世話して、その家を継がせた。 旗本古川節蔵になり、幕府の海軍士官となった。 語学も数学も堪能で、海軍士官の資質を十分備えていたため、任官してほどなく運送艦長崎丸の艦長に選ばれている。 これにより、古川は塾長を辞めた。 元治元(1864)年、28歳の時のことである。

 戊辰戦争に際して、榎本武揚らは幕府の軍艦を品川沖に集結させた。 どうしたらよいか相談した古川に、福沢は「ソリャよすがよい、とてもかなわない、戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとかいうような理非曲直はいわないが、なにしろこういう勢になったからは、モウ船に乗って脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思い止まるがいい」と言った。 だが節蔵は強気で、きっと勝算があると、いうことを聞かない。 「そうか、ソレならばかってにするがいい、おれはモウ負けても勝ってもしらないぞ」、妻君だけは生きていられるように世話をしてやる、「ドウでもなさい」と言って別れた。(『福翁自伝』「王政維新」古川節蔵脱走)

 古川節蔵は、長崎丸で榎本より先に品川を脱走し、房総や伊豆などで幕府の脱走兵などを収容、輸送し、箱館に入った。 長崎丸はその後、明治元年3月庄内藩応援の途中、羽前の酒田沖で難破したが、古川はその前秋田藩から捕獲した高雄丸の艦長に転じていた。

そして、昨日書いた宮古湾海戦によって、明治2年3月に政府軍に投降し、約1年間拘束された。 和田倉門内の糾問所に収監され、のち旗本としてではなく芸州浪人扱いで霞ヶ関の安芸藩下屋敷お預けの身となった。 その時の古川の処遇について福沢が心を配ったことは、『福翁自伝』「雑記」、また福沢書簡に見える。 『福澤諭吉書簡集』第1巻、書簡番号84、明治3年2月5日、星野康斎宛書簡は、広島藩邸にいた懇意な医者である星野に、藩邸に預けられている古川節蔵と小笠原賢蔵(慶応3(1867)年、軍艦受取渡米使節団の一員)へボムホフ辞書(新オランダ語大辞典など)を差し入れ、翻訳することを依頼している。 福沢は身柄釈放の方法として、政府の仕事をやらせるのがよいと考え、別にまた英国軍律の本の翻訳適任者として古川、小笠原の名のある推薦状を政府に提出してもいる。 書簡番号85、明治3年2月9日、星野康斎宛書簡は、古川、小笠原両名が広島藩江戸屋敷から釈放された報知への礼状である。