古川正雄、維新後、行動の人から思索の人へ2022/11/17 07:13

 主に野村英一さんの「古川正雄」(『福澤手帖』42号(昭和59年9月20日))によって、その後の古川正雄を見てみたい。

福沢の推薦状の効果もあったのか、古川は明治3年から4年にかけ、海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に勤務し翻訳に当たることになった。 海軍兵学寮十一等出仕、翻訳掛、独見受業、船具運用書取調という肩書で、ネイル英国海軍中佐著の運用術教科書などを翻訳した。 運用術というのは、帆の上げ下げ、出入港作業、錨作業、船体船具の点検・修理、消火、排水など船の根幹にかかわる作業をいう。 当時の軍艦は、帆走と蒸気機関航行を併用していたので、運用術は海軍士官にとって、航海術とともに重要な学科だった。 古川の海軍兵学寮勤務は短く、『運用術全書』を著わすとほどなく辞めたとみられるという。

そのころ福沢は『掌中万国一覧』、『世界国尽』、『西洋事情』(二篇)、『啓蒙手習之文』などを刊行、どれも飛ぶように売れていた。 古川は福沢のもとに足しげく出入りしていて、『絵入智恵の環』(小学読本初~四篇 各上下 8冊)を明治3年から5年にかけ慶應義塾出版社から刊行した。 ほかに『ちえのいとぐち』(小学読本)を明治4年に出すなど、大人が読んでもおかしくない啓蒙書を著わしている。

古川は、機械文明をきわめるには、やはり欧米に行って学ぶ必要性を痛感していたが、簡単に留学できる状況ではなかったので、工部省に入って時機を待った。 明治5(1872)年には太政官正院に移り、翌6(1873)年、ウィーン万国博覧会出張を命じられ、出品目録諸著書編集係として参加した。 ウィーンについた古川にとって、見るもの聞くものすべて珍しく、旺盛な知識欲を満足させた。 産業用の各種機械を見るだけでなく、機械を運営する制度、ひいては機械文明社会について学んだ。 とくに西洋人のものの考え方が書物の上だけでは理解できなかったのが、わかってきただけでも大きな収穫だった。 さらに農学研究のため欧州留学中の津田仙(3月14日発信、津田梅子の父、仙<等々力短信 第1153号 2022(令和4).3.25.>参照)とウィーンで知り合ったことも、古川にとって後の思考転換の大きな要因となっている。

帰国後、古川は工部省を辞めた。 役人生活が水に合わなかったばかりでなく、学究生活に入りたいという前からの願望が再燃した。 古川は、福沢や森有礼、西周、中村正直(敬宇)らが設立した明六社に、明治7年加入した。 古川と相前後して津田仙も明六社に入って、機関誌『明六雑誌』に論文を発表し、文明とはなにかについて模索していた。 しかし明治8年6月「讒謗律」と「新聞条例」が発布され、新聞雑誌の記事論説に窮屈な制限を加えることになったため『明六雑誌』は同年11月号で廃刊され、やがて明六社も消滅した。 古川は、この間『洋行漫筆並附録』(二冊本 慶應義塾出版社 明治7年)以外まとまった著作を出していないが、組立地球儀や西洋図画手本など各種教育用具の新案を作成したり、明治8年3月自宅のある神田錦町に錦裔塾(青山学院の前身のひとつ)を設立し、英語の教師として宣教師ジュリアス・ソーバーを雇い入れた。

明治8年5月英人教師ヘンリー・フォールズ、津田仙、中村正直、岸田吟香らと、訓盲院設立のために「楽善会」を組織、6月には訓盲院の設立を東京府に出願した。 府当局は外人中心の事業であるという理由で許可しなかったため、外人を除くなど内容変更の上、再出願して翌9年2月になってようやく許可された。 同年12月には皇室から3千円の御下賜金も出たが、紀尾井町から築地への設立場所の変更、建設などを経て、実際に訓盲院が授業をはじめたのは明治13年2月であった。

古川は9年1月にはソーバーにより洗礼を受けてキリスト教徒となっている。 古川は、訓盲院築地移転の話が出る少し前の10年5月2日に病死した(野村英一さんは4月2日としているが、『福澤諭吉書簡集』第2巻、書簡番号205、明治10年5月3日山口広江宛書簡に「古川正雄昨日急病にて死亡」とある)。 数え年41歳の若さであった。 福沢は、遺族の世話に心を配っている。

 野村英一さんは、古川正雄のたどった足跡を、明治維新までは行動の人、維新後は思索の人であったとした。 新しい時代を迎えると、合理主義に徹し啓蒙活動に努力した、それだけではあきたらず、人道主義をとり社会奉仕活動に手を染めたが、急死によって実を結ばなかった。 福沢が古川の才能を愛し、終始その大成を期待していたのもうなずける。 この福沢門下の逸材を再評価する必要があるのではないか、と結んでいる。