ふだん上演されない『仮名手本忠臣蔵』の段 ― 2022/12/01 07:07
そこで、『仮名手本忠臣蔵』「二段目」と「八段目」「九段目」「十段目」「十一段目」もみておこう。
「二段目」[桃井館力弥使者の場] 塩冶判官とともに足利直義の饗応役の大名、桃井若狭之助の館を、由良之助の息子力弥が、明日の登城時刻を伝えるために訪れる。 家老の加古川本蔵と妻の戸無瀬が気を利かせ、許婚の力弥に恋心を抱く娘の小浪に口上の受取役をさせるが、ぼうっとみとれてしまい、返事もできない。 そこへ主君の若狭之助が現れ、口上を受け取り、力弥は役目を終えて帰って行く。
[桃井館松切りの場] 加古川本蔵は娘を去らせ、主君に前日師直から辱しめを受けた一件を尋ねる。 若狭之助は腹の虫がおさまらず師直を討つつもりだと明かす。 本蔵は止めるどころか、若狭之助の刀をいきなり取って、庭先に降り、その刀で松の枝を切り捨て、「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。 喜んだ若狭之助は奥に入り、見送った本蔵は馬に乗ってどこかへ出かける。 本蔵が主君のためを思い、師直に賄賂を贈りに行ったことが、「三段目」で明らかになる。
「八段目」道行旅路の嫁入。 力弥と小浪は許婚だったが、お家の取り潰しで婚儀を挙げられないでいた。 悲しむ娘に母の戸無瀬は、供も連れずに娘と二人で、鎌倉から由良之助たちのいる京の山科へ向かう。
「九段目」山科閑居の場。 小浪と戸無瀬のあとを追って、山科に現れた加古川本蔵は、判官を抱き止めたことで師直は軽傷にとどまり、判官は切腹、塩冶家はお取り潰しになったことを後悔しており、わざと力弥に討たれて、師直館の絵図面を由良之助に渡す。
「十段目」天川屋義平内の場。 塩冶家に出入りしていた廻船問屋、摂津国堺に店を持ち商売している。 討入の武器などを調達、運送してくれる、天川屋義平「男でござる」。 討入で味方確認の合言葉が「天」「川」となる。 義平の妻・園の父・大竹了竹が、斧九太夫抱えの医者だったことから、義平の家のゴタゴタがからむ。
「十一段目」高家表門討入の場。高家広間の場。高家奥庭泉水の場。高家柴部屋本懐焼香の場。花水橋引揚げの場。 要するに、討入、本懐を遂げることになる。 めでたし、めでたし。
「鼠を捕らんと欲せば、猫より進む可し」 ― 2022/12/02 07:04
10月25日に、「三度び敗れて一度び成れば前後償ふて余りあり」を出した「福澤諭吉先生の『元気の出る言葉』」、『105年三田会名簿』1989年編に書かせてもらった(無署名)、続きを引いておきたい。
「鼠を捕らんと欲せば、猫より進む可し、鼠の来りて猫に触れたる例を聞かず。」
(『福翁百話』五十六)
「智恵は小出しにす可し」の中にある。一事に大きな智恵を現して、天下を驚かそうとするよりも、朝に夕に、物に触れ事に当たり、遅滞なくこれを処理して、さわやかに世を渡りなさい。鼠を捕る猫は爪を隠すと云う。隠すのはいいけれど、生涯隠して、鼠を捕らなければ、爪がないに等しいと、福澤先生は教えている。
「察々の明は交際の法にあらず。」 ― 2022/12/03 07:05
「察々の明は交際の法にあらず。/十人は十人、百人は百人、大瑕瑾(だいかきん)小瑕瑾、都(すべ)て疵(きず)持つの身にして、智徳言行の完全なる者とては、殆(ほと)んど一人もある可らず。/朋友を容(い)るゝの度量は、広くして聊(いささ)か漠然たるを要す。」 (『福翁百話』五十九)
「察々の明」とは、人間があまり明察にすぎて、相手の欠点や短所に気付いてしまうこと。「瑕瑾」は、疵(きず)、つまり欠点や短所。人と交わるには、なるべくその長所と交わるようにして、つとめてその欠点や短所は見ないようにすべきである。人おのおのには特徴があり、その特徴のどこかには必ず長所がある。そこだけを見るようにして交際すれば、相手も気持よく受け入れてくれるし、こちらも学ぶことが多い。
「棄(すつ)るは取るの法なり」 ― 2022/12/04 07:18
「棄(すつ)るは取るの法なりと云ふ。/人間の心掛けは、兎角浮世を軽く視て、熱心に過ぎざるに在り。/浮世を軽く視るは心の本体なり。軽く視る其浮世を渡るに、活発なるは心の働なり。内心の底に之を軽く視るが故に、能(よ)く決断して能く活発なるを得べし。 (『福翁百話』十三)
『福翁百話』の十にも、人生は蛆(うじ)虫に等しく、ただ一時の戯れにすぎない、というのがある。そのように人生を戯れと知りながらも、この一場の戯れを戯れとせず、本気で真面目に勤めるべきだという。本来戯れと認めるがゆえに、大事の場合に臨んで、動揺することなく、憂うることも、後悔することも、悲しむこともなく、安心して事にあたれるのだ。晩年、福澤先生は好んで「戯去戯来」という文句を揮毫した。
「説は事勢に由て改めざる可らず。」 ― 2022/12/05 07:18
「志は時に随(したがう)て変ぜざる可らず、説は事勢に由(より)て改めざる可らず。」 (『覚書』)
明治八年秋ごろの『覚書』にある。誰でも、過去の自分と現在の自分を比較した時、過去の失策、未熟さを、冷汗の出る思いで反省する。これが出来てこそ、その人の進歩が著しいのであって、昔も今も少しの変化もなく、同じ時点にとどまっている人は、進歩のない人生を送るものであると、福澤先生は考えた。とりわけ志や主義主張を変えることを、この上もなく不名誉なことのようにいう考え方をしりぞけて、それも時勢とともに改める必要があるとした。つまり、柔軟な物の考え方をすることをすすめたのである。
最近のコメント