フェノロサの生涯と日本美術保護(その1)2022/12/23 07:03

 フェノロサという人物についても、興味がつきない。 アーネスト・フランシスコ・フェノロサは1853年2月18日、アメリカのマサチューセッツ州セイラムに生れた。 地元の高校からハーバード大学に進み、哲学、政治経済を学んだ。 先に来日していた動物学者のエドワード・シルヴェスター・モースの紹介で1878(明治11)年、25歳の時に来日、東京大学で哲学、政治学、経済学などを講じた。(モースについては、「三田あるこう会」の江の島探訪に関連して、2020.11.7.から11.23.まで、いろいろ書いた。) フェノロサの講義を受けた者には、岡倉天心、嘉納治五郎、井上哲次郎、高田早苗、坪内逍遥、清沢満之らがいるそうだ。

 フェノロサは来日前に、ボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあって、美術にも関心を持っており、来日後、日本美術に深い関心を寄せた。 日本人が自国の文化を大切にしないこと、特に廃仏毀釈の嵐で、貴重な文化財が失われていることに衝撃を受け、作品がいかに素晴らしいかをことあるごとに説いて、日本美術の保護に立ち上がった。

 文部省に掛け合って1884(明治17)年、美術取調の文部省図画調査会委員となり、まだ学生だった岡倉天心を通訳に同行させて、京都・奈良の社寺仏閣を巡り、古美術の調査を開始する。 二人は数度にわたって、60か所以上の社寺、約450品目の美術品を調査し、法隆寺・夢殿では数世紀も「絶対秘仏」とされていた等身大の聖徳太子像≪救世観音像≫の厨子の開扉を、粘り強く説得して実現した(現在、春と秋に≪救世観音像≫が特別公開されるのは、フェノロサのおかげという)。 その美しさに驚嘆したフェノロサは、翌年キリスト教を捨て、滋賀県三井寺(園城寺)で受戒し、正式な仏教徒となる。 その後、天心とともに東京美術学校の設立に尽力し、新世代の日本画家育成に寄与する。