福沢家の墓地、竜源寺から常光寺、善福寺へ2023/02/12 07:40

 光林寺から明治通りを渡り、五の橋が工事中なので、天現寺寄りの養老橋を渡って、北里大学の横を三光豊沢商店街のバス通りに出、蜀江坂から雷神山(いかずちやま)児童遊園に上がり、明治坂を下って(その時、思い出せなかった永井荷風の句の季題は、冬空や麻布の坂の上(あが)りおり、だった)プラチナ通りに出、今回のもう一人の当番片山さん推薦のショコラティエ・エリカに寄り、目黒通りを越えて、上大崎の常光寺に着いた頃にはもうヘロヘロ、ずいぶん、くーたびーれた(この後、目黒駅近くに行き昼食、当日の万歩計は15,926歩)。

 上大崎の常光寺、「東京都寺社案内」の概要に「浄土宗寺院の常光寺は、正福山晴冷院と号します。常光寺は、元和元(1615)年芝金杉に大誉上人が開山しました。高輪北町への移転を経て、明治42年に当地にあった正福寺と合併、明治43年に当地に移転し、現在に至っています。」とある。 エーーッ、それでは福沢先生が亡くなった明治34年には、常光寺はここになく、正福寺という寺があったことになるではないか。

 『福澤諭吉事典』の索引から「常光寺」を見ると、いくつかのことがわかった。 今は元麻布の善福寺にある「福沢氏記念之碑」だが、明治6(1873)年、東京における福沢家最初の墓所である三田の竜源寺に福沢によって建てられた。 富田正文先生の『考証 福澤諭吉』(上)も参照すると、竜源寺には、明治3(1870)年5月8日に母の順が死去した時に埋葬し、明治5(1872)年7月に妻のお錦が五度目の出産で分娩した死胎の女児も小さな石碑を建てて埋葬していた。 福沢家の宗旨は浄土真宗で、中津桜町明蓮寺の門徒、竜源寺は曹洞宗の禅寺だったが、竜源寺は藩主奥平家と深い因縁のある寺で、家臣藩士の墓は多く、寺と懇意な藩士たちもいたので、頼んで東京の新墓地としたのだろうという。 その竜源寺、実は今回の散策コースにごく近い古川端にある。 ホームページは龍源寺となっていて、港区三田5-9-23、麻布通りが明治通りへ直角に曲がる古川橋を渡った反対側にあり、(『考証』の曹洞宗でなく)臨済宗妙心寺派である。

 『福澤諭吉事典』の「常光寺」の項、「浄土宗の寺。福沢諭吉が明治34(1901)年から昭和52(1977)年の改葬まで埋葬されていた。元来は芝増上寺の末寺である正福寺(浄土宗)の境内にあった墓地だが、この寺が廃寺となり、隣接する本願寺(浄土宗)が管理していた。/生前、福沢は近辺を散歩中にこの土地が閑静で眺望がよいと気に入り、あらかじめみずからの埋葬地と定め、明治29(1896)年に三田の竜源寺にあった福沢家の墓をこの地へ移した。なお、菩提寺である善福寺は、福沢が望んだ土葬を禁止する区域内(「朱引内」を後で見てみたい)だったため他所を探していたという事情もあった。明治42年、高輪にあった常光寺(浄土宗)が正福寺の跡を譲り受け移転してきたため、墓地の管理も本願寺から常光寺に引き継がれた。」

 「昭和51(1976)年に常光寺が、墓地は浄土宗の信者に限るという管理規定を制定したことをきっかけに、再び福沢家で墓地移転が検討され、「何か不都合が生じたら菩提寺に改葬するように」と福沢が息子たちに伝えていたという話から、善福寺への改葬が決められた。」 昭和52(1977)年5月に発掘、火葬して善福寺への改葬が行われ、「翌年5月、常光寺の福沢埋葬地跡に「福沢諭吉先生永眠之地」と刻まれた記念碑が建立され除幕式が行われた。」