「朱引内」「墨引」と福沢諭吉の墓2023/02/13 07:12

 俵元昭さんの『港区史跡散歩』に、「土葬が善福寺のある出場限朱引というものの内では禁止されていたかららしい。この朱引のすぐ外に光林寺があった。」とあり、ヒュースケンの葬儀と墓が、アメリカ公使館のあった善福寺でなく光林寺になったのも、福沢諭吉の墓が菩提寺の善福寺でなく本願寺(後に常光寺)になったのも、「出場限朱引」「朱引」に関係するらしい。

 「出場限朱引」で検索すると、慶應義塾図書館文献シリーズの『江戸切絵図 尾張屋清七版 執筆 白石克』が、いくつもヒットする。

『日本歴史大事典』で朱引内(しゅびきうち)を見ておく。 「江戸幕府が1818(文政元)年、江戸の範囲である御府内(ごふない)を示した地図上の朱線内のこと。御府内とは必ずしも江戸町奉行支配場だけではなく、府内の変死者・迷子を掲示する場合(札懸場(ふだかけば)境筋)の範囲や、寺社が堂塔修築の勧化(かんげ)を府内で行う場合(勧化場境筋)の範囲をさすこともあった。これらの境筋を地図上に朱線で、町奉行支配場境筋を墨線で引き、より広い朱線で囲まれる範囲を御府内とした。実際には、東は中川、北は荒川・石神井川、西は神田上水、南は目黒川でほぼ限られる。〈玉井哲雄〉」

 「ウイキペディア」の「朱引」を見ると、上の町奉行支配場境筋の墨線を「墨引(すみびき)」と呼んだことがわかり、「目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の小さな環状域である」とある。

 「出場限朱引」を画像で検索すると、いくつもの「江戸朱引内図」を見ることが出来る。 どれも「墨引」が目黒付近で「朱引」の外側に突出している。おそらく目黒不動尊の関係だろうと考えられる。 興味深いのは、その地域に福沢諭吉が最初に埋葬された本願寺(後に常光寺)があるということだ。

 「江戸朱引内図」で、「墨引」が「朱引」の外側に突出している地名を見ると、下目黒村と中目黒村である。 上大崎村、下大崎村、臺町は「朱引」の内側だが、「墨引」の外側になっている。 本願寺(後に常光寺)が上大崎村だとすると、微妙な場所になるわけだ。 本願寺に埋葬されたのには、「朱引」よりも「墨引」が関係しているのではないか。 阿佐布町、三田村、白金村、永峯六軒茶屋町は、「朱引」「墨引」両方の内側にある(光林寺が阿佐布町とすると、上の俵説は疑問)。 永峯六軒茶屋町は、都心から白金村を経て目黒不動尊の参詣に向かう今の目黒通り、馬の背のようにだらだらと長い尾根道で「永峯」、茶屋が六軒あったからだそうで、「墨引」の突出とともに、目黒不動尊参詣の賑わいを偲ばせる。

 明治期の「朱引」は、明治2(1869)年、東京府が「朱引」の内側を「市街地」、外側を「郷村地」とし、明治11(1878)年の郡区町村編制法の施行(東京15区の制定)まで続いたというが、明治34年の福沢埋葬の頃はまだ、江戸時代の「朱引」の伝統が残っていたのかもしれない。