『太平記』と「仮名手本忠臣蔵」2023/02/15 07:18

 楠木正成のことは、福沢諭吉にいわゆる「楠公権助論」問題があるのは知っていたが、ほとんど何も知らなかった。 吉川英治の晩年『私本太平記』が、高校時代の昭和33(1958)年に毎日新聞に連載され、杉本健吉の挿絵などを見ていたが、読んでいなかった。 これは平成3(1991)年、真田広之の足利尊氏を主人公に大河ドラマ『太平記』となっているが、これも見ていなかった。

 昨年11月「さようなら、初代 国立劇場」公演の〝歌舞伎&落語コラボ忠臣蔵〟を観て、あらためて「仮名手本忠臣蔵」が赤穂浪士の仇討を脚色し、背景を『太平記』の時代に置きかえているのを知った。 『太平記』の物語は、誰もが知っている常識だったのだろう。 「大序」鶴ヶ岡社頭兜改めの場。 暦応元(1338)年2月伯耆国の大名、塩冶判官高定は、足利尊氏の代参として鎌倉鶴岡八幡宮に参詣する足利直義(ただよし)の饗応役を命じられる。 塩冶判官は指南役の武蔵守高師直から謂れのない侮辱を受け、それに耐えかねて、殿中で師直に斬りつけるが、もう一人の饗応役の大名・桃井若狭之助の家老・加古川本蔵に抱き止められ、師直は軽傷で済む。 大詰めで、山科に現れた加古川本蔵は、高師直館の図面を大星由良之助に渡し、由良之助らは討入、本懐を遂げることになる。 吉良上野介義央を高師直、浅野内匠頭長矩を塩冶判官高定、大石内蔵助良雄を大星由良之助としているわけだ。

 高師直は、南北朝時代の武将、足利尊氏の執事、武蔵守。 尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多かったが、のちに尊氏の弟直義らと対立し、上杉能憲の一党のため弟師泰とともに殺された。

 『太平記』を辞書などでみる。 軍記物語、40巻。 作者は小島法師説が最も有力。 文保(ぶんぽう)2(1318)年後醍醐天皇の即位以後、北条高時失政・建武中興を始め、鎌倉末期から南北朝中期までの50余年間の争乱の様を和漢混淆文によって描いたものだという。 第一部、巻1から巻11までは、後醍醐天皇による北条幕府討伐の計画から、その成就、建武政権の確立まで、楠木正成らの動きを軸に描き、完結した物語をなしている。 第二部、巻12から巻21までは、建武政権の乱脈を批判しつつ、諸国の武士の、新政に対する不満を背景に足利・新田の対立、足利の過去の善因による勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。 残る第三部は、南北両朝の対立、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(足利尊氏とその弟直義の政争。一時和睦したが、直義は鎌倉で毒殺された)、直義の死に代表される足利幕府中枢部の内訌(ないこう)から細川頼之の義満将軍補佐による太平の世の到来までを描く。

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