楠木正成、百倍の敵を相手に「悪党の戦」2023/02/17 07:12

 後醍醐天皇の腹心の僧、文観が楠木館に父正成を訪ねてきた翌元徳3年4月、正成が危惧していたことが真(まこと)となった。 鎌倉討滅に向けて策を練っていることが漏れたのだ。 帝の側近、吉田定房が鎌倉方に密告した。 鎌倉方は計画の中心にある日野俊基、正成を勧誘した文観を捕縛した。 後醍醐帝の焦りと恐れは頂点に達し、その年、元弘と改元された直後の8月24日、帝は僅かな側近のみを連れて京を脱け出した。 東大寺、鷲峰山金胎寺を経て、笠置山に移って決起、味方を集めるべく各地に檄を飛ばした。 だが大名は一人として集まらず、集まったのは悪党と呼ばれる在地領主、奈良寺社の僧兵、神人(じにん)のみ、僅か3千余に過ぎなかった。 鎌倉方は、早くも9月1日には宇治に兵を参集させ、7万を超える大軍で、翌日には笠置山を取り囲んで総攻撃を開始した。

 楠木正成は、笠置山に呼応して、来たる時に備えて甲取(かぶとり)山に築城中だった赤坂城(のちの下赤坂城)で、決起した。 赤坂城に籠もった5百を、河内守護、地頭の兵が1千5百で取り囲んだ。 笠置山の3千は健闘したが、9月28日に陥落、後醍醐帝は捕えられた。 鎌倉にとっての目下の敵は楠木家になった。 鎌倉から正規軍が続々上洛、総勢30万と号した四軍からなり、その四軍を率いていたのが足利高氏(後の尊氏)だった。

 赤坂城に籠もる者たちの士気は頗(すこぶ)る高かった。 後醍醐帝の第三皇子、大塔宮(おおとうのみや)護良(もりよし)親王が、兄の尊良(たかよし)親王と共に逃げて来たのも大きかった。 楠木軍5百余に対し、敵勢は5万にも迫る大軍、その差は実に百倍、しかも勇猛と名高い坂東の荒武者なのだ。

 正成は、一時は御家人になろうと鎌倉の命に従ったが、華々しい功績を挙げても、鎌倉は楠木家を御家人として正式に認めなかった。 「こちらは御家人ではない」「我らは悪党なのだ」と、悪党の戦のやり方で戦った。 戦端が開かれる前に、弟の正季に3百の兵を預け、連なる山に潜伏させていた。 鎌倉武者が名乗りを上げているところに、容赦なく矢を雨が降る如く浴びせた。 降り注ぐ矢に辟易し、一時兵を休めた時、正季らはわらわらと姿を現して三方から奇襲を仕掛ける。 と同時に、正成も木戸を開き、残る2百の兵と共に突貫、鎌倉方は大混乱に陥り、死人怪我人は千を超えて、態勢を立て直すために退く。

 鎌倉方は日を置いて態勢を立て直し、攻め寄せる。 城の塀にまで迫るが、中は静かだ、逃げたのかと、慌てて塀を乗り越えようとすると、塀がどっと倒れて来た。 実は、塀は二重になっており、外側は縄を張って立っていただけで、その縄を一斉に断ち切ったのだ。 寄せ手は押し倒され、坂を滑り落ちる、そこへ用意の大石や丸太を次々に落としたから堪らない。 さらにそれまで息を潜めていた楠木軍が喊声を上げ、空を覆うほどの矢を射掛けるものだから、鎌倉方は阿鼻叫喚の様を呈した。 次は慎重に塀へ攻め寄せると、内側から長さ二丈の柄杓がにゅっと伸びて、熱湯を振り撒いた。

 攻める度に甚大な被害が出たことで、鎌倉方は力攻めを止め、兵糧攻めに方針を切り替えた。 それを主張したのが、足利高氏だった。

 戦が始まって一月と少し経った10月21日の夜半、突如赤坂城から火が上がった。 翌日、踏み込んだ鎌倉方が見つけたのは、掘られた大きな穴の中の、将の鎧を帯びた二十数体の骸だった。 鎌倉方は、正成と楠木一族の者たちだろうと断定し、乱は収束したとして関東へと引き揚げていった。 その時、正成は数人の供と金剛山の山中にいた。 城に火を放たせ、この戦で死んだ者たちを身代わりに仕立てたのだった。 それから一年、正成は消息不明となった。 一方、共に籠っていた護良親王は、十津川を経て、熊野に潜んだ。

 笠置近くの山中で捕えられた後醍醐帝は、遠く隠岐へと流され、皮を削った白木ではなく自然のままの木で造られた粗末な黒木御所で、不自由な生活を強いられることになった。

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