楠木党、多聞丸正行周辺の人々2023/02/21 06:59

 今村翔吾さんの『人よ、花よ、』第一章「英傑の子」に続く、第二章は10月3日49回からの「悪童」、11月17日92回の途中で第三章「桜井の別れ」に入り、新年に入って3回目の1月4日138回の途中で第四章「最古の悪童」になった。 今村翔吾さん、月末や新聞紙面の切れのいいところで、物語を展開したり、章立てすることは、気にしない自由な感覚の方らしい。

 そこで第二章「悪童」、楠木多聞丸正行周辺の主要な人物を続々と登場させる。 多聞丸(21)の三つ下の弟、次郎正時、奔放な父正成と叔父正季の関係のようで、温厚だが兄のことをよく理解している。 河辺石掬丸(いしすくいまる)、浮浪者狩りから逃げた孤児を多聞丸が引き取って4年、齢15か、利発で読み書きも覚え、愛馬「香黒」の馬丁を務める郎党となっている。

 「野田の親仁(おやじ)」野田四郎正周(まさちか)(47)、元は河内国野田に根を張る豪族で、父とは幼い頃から肝胆相照らす間柄、「俺に何かあれば多聞丸を頼む」といわれ、今は楠木家の財の根幹「物流」を担当している。 二つの村の水争いの相談に来たのだが、多聞丸は御屋形として「銭と人を出す」と裁決した。 この裁決、決して普通でない。 他の武士は、百姓たちを自分の屋敷や城の建築や修繕などに、一銭も払わずに駆り出す。 年貢も、通常四割のところ、楠木家は父の代から三割五分と定めている。 物流掌握から銭を得ているからだ。

 今から6年前の延元5年の初春、多聞丸は僅か15歳で朝廷から河内国の国司、並びに守護に任じられた。 父を失った後も、河内国での楠木党の威勢は一定を保った。 だがこれは一族で和泉国の守護代を務め、河内北部を治める大塚惟正(これまさ)が、幼い多聞丸の代わりに奮闘していたからだった。 このまま大塚が河内国の国司、守護に任じられるものと思っていたし、朝廷からの打診もあったらしいが、大塚は「あり得ませぬ。楠木党の屋形は正行殿です」と一蹴したという。 それで、多聞丸は一族の助けも得ながら、国司として行政と司法を、守護として軍事、警察を司ることになった。

 多聞丸の大叔父親遠(ちかとお)が和田に移って和田家と称した。 親遠には子がなく、叔父の正季が養子となって和田正氏となったが、それは父と共に楠木家の名が轟いた後だったので、「楠木正季」として記憶されることが多かった。 その子が、多聞丸の従兄弟、和田新兵衛行忠(21)、二つ下の六尺二寸巨躯の弟和田新発意賢秀(しばちけんしゅう)である。

鎌倉の友達<等々力短信 第1164号 2023(令和5).2.25.>2023/02/21 07:01

 1月27日に97歳で亡くなった永井路子さんの文、松尾順造さんの美しい数々の写真で『鎌倉―中世史の風景』(1984(昭和59)年)という本がある。 白黒の岩波写真文庫の後、カラーの堅い表紙で出たIWANAMI GRAPHICSシリーズの一冊だ。 冒頭の「鎌倉開府」、「海をかかえた小さな集落が中世の夜明けを迎えるまで、波はおだやかな歌を歌い続けていたことだろう」、「ところがある日、突然この小さな土地が歴史の本舞台になる。12世紀の末に、源頼朝がここに入ってきたのだ。」「これを東の「くに」の誕生――と私は思っている。」「先進的な都を中心とした「西国国家」、「西」の搾取に甘んじてきた「東」が面(おもて)をあげていささかの権利を主張しはじめた――というのが、この動乱の本質なのだ。そう理解しなければ、真の「鎌倉」の意味はわからない。」

 高校に入って、鎌倉の扇ヶ谷(おおぎがやつ)から通って来る同級生の福原隆史君と、通学経路が重なり仲良くなった。 那須与一宗隆の末裔で、父上は大田原市佐久山に工房を持ち三越で個展をする陶芸家と聞いた。 扇ヶ谷の家は、山を背景にして広い庭を持つ山小屋風だった。 泊めてもらって、長谷の大仏近くの中華料理をご馳走になり、朝、鎌倉駅の裏駅まで走って登校したりした。 彼は家庭の事情で、慶應ラグビー草創期の大先輩のお祖父様、芸術家でろうけつ染めを教えるお祖母様と暮していた。 その関係で、冠婚葬祭など家の用事も務めているらしく、しっかりした大人びたところがあった。 彼が『マンハント』なんていう雑誌を読んでいたので、ハードボイルドの小説を知り、当時評判になった『ペイトンプレイス』をこっそり回し読みしたりした。

 大学受験のない自由な学校での高校一年生、振り返ってみれば、輝ける日々だった。夏休みには、新聞部でも一緒になったので、逗子から通って来るM君と三人、湘南の海で遊び、お知り合いの別荘のある北軽井沢に旅行した。 草軽電鉄に乗り、法政大学村の人は「お池」といっていた照月湖でボート遊びをし、鬼押出を歩いたりした。 冬には、岩原スキーロッヂのスキーヤーズ・ベッドに泊まって、夜間スキーもした。

福原君とM君は後年、辞書や受験雑誌で名高い出版社に就職、重要な役職を務めた。 初めから「短信」を読んでもらっていて、三冊目の私家本を出した時だったか、二人で会社の迎賓館のようなところに招待してくれ、夫婦で御馳走になった。 落語の会でたまたま会って以来、近年はご無沙汰だったが、ずっと「短信」は鎌倉市佐助に送っていた。 返信はなかったけれど、よい友達だという思いは変わらなかったからだ。

M君からの電話で、福原隆史君が1月23日に心筋梗塞で亡くなったと知った。 がっかりした。 高校時代を思い出して感謝し、わずかに自分を慰めている。