悪党の力だけで京を奪う「夢」の行方2023/02/24 07:03

 多聞丸は母に、前に語った赤松円心と楠木正成の夢を覚えているか、と訊く。 二人と護良親王が狙っていたのは、後の政(まつりごと)のため、御家人のうちに寝返る者が出る前に、悪党の力だけで京を奪うことだった。 仮に鎌倉を滅ぼしたとしても、そこに武士の力を借りれば、十分な恩賞を与える必要がある。 そうなればまたぞろ力を持つ者が出来(しゅったい)し、世の武士たちを取り纏めようとする野心を抱くだろう。 これではまた新たな「鎌倉」を生むだけで、帝の親政の大きな障害になるだろう。 そこで御家人のような既存の武士の力を借りず、悪党たちの手だけで鎌倉を討とうとしたのだ。

 正成が千早城で雲霞の如き大軍を引き付けている間に、赤松が京を落として帝を迎え入れる算段であったのだ。 そうなればまだ鎌倉は健在でも、一応は帝の親政を始めることが出来る。

 策は途中までは上手くいっていた。 だが赤松は、倍ほどの兵を残していた六波羅軍と、一進一退の攻防となって時が流れていった。 赤松が乾坤一擲の決戦を仕掛けようとした矢先、足利高氏が寝返ったのだ。

 後醍醐帝は京に入り親政を始めようとしたが、護良親王が召喚に応じなかった。 護良親王は、足利高氏が武士たちからの信頼が篤いこと、六波羅を落とした功績で多大な恩賞を得て力を付けるのが明白になっことで、「あの男は次の鎌倉を創る」と警戒したのだ。 そこで護良親王は上洛せずに高野山から信貴山に移り、自らを将軍にするように父帝たる後醍醐帝に要求した。 自らが宮将軍となることで、全国の武士を取り纏めようとしたのである。

 護良親王の思いと裏腹に、後醍醐帝は足利高氏のことを高く評価していて、間もなく、自らの諱(いみな)から「尊」の字を与えた。 後醍醐帝も尊氏を全く警戒していなかった訳ではなく、尊氏に力が集中しないように、新田義貞も篤く遇し、武士の力を二分しようとしていた。 護良親王は、新田義貞では足利尊氏を抑えきれぬと看破していた。 だから頑強に訴え続け、やがて後醍醐帝も折れて護良親王を征夷大将軍に任じたので、ようやく山を下りて京に入ったのである。

 楠木正成は、多大な功績を認められ河内、和泉の守護、河内の国司、記録所寄人(よりうど)、雑訴決断所奉行人、検非違使という要職に任じられ、出羽、常陸などにも多くの所領を与えられた。 一介の悪党であったことを考えれば、誰もが羨むほどの出世である。 しかし、正成の表情は冴えなかった。 護良親王と足利尊氏の関係に心を痛めていたのだ。

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