『桃源の水脈』を尋ねて ― 2023/03/18 07:01
そこで呉春の≪武陵桃源図巻≫だが、「武陵桃源」・陶淵明の「桃花源記」・「桃源郷」について、以前「等々力短信」第1121号に「『桃源の水脈』を尋ねて」(2019(令和元).7.25.)を書いていたので、まずそれを再録する。 今は亡き芳賀徹さんの『桃源の水脈―東アジア詩画の比較文化史』(名古屋大学出版会)に拠ったのだった。
等々力短信 第1121号 2019(令和元)年7月25日 『桃源の水脈』を尋ねて
45年前の新聞にインパール作戦生き残りの元日本兵120人ほどがタイ一番の奥地、山深い「かくれ里」で少数民族の女性を妻とし、安定した生活を送っており、農耕、建築、医療などで現地人の尊敬を受けている、という噂が報じられた。 そのタイ山地の奥から中国雲南省の一帯を中心に、東は「桃花源記」の舞台となる湖南省から、西はアッサムの高原までの半月弧型の地域が、モチ米、大豆、小豆、シソ、茶、絹、漆、コンニャク、蕎麦などの栽培作物とそれにともなう「東アジア文化」の発生の中心地なので、この地域一帯に似たような伝承や説話が発生し流布していないはずはないと、芳賀徹さんの『桃源の水脈―東アジア詩画の比較文化史』(名古屋大学出版会)は始まる。
この新聞記事によって、陶淵明の「桃花源の詩并(なら)びに記」が、にわかになまなましい現実性をおびてくる。 東晋時代、いまの湖南省、洞庭湖の西岸の武陵の山地の一漁師が、川をさかのぼって漁を続けてゆくうちに、自分がどれほどの道のりを来たのかわからなくなる。 谷間の奥の両岸に花盛りの桃の林が現れる。 桃花林は渓流の水源で尽きて、目の前に岩山があった。 山には、洞穴らしい口が開いていて、かすかに日の光が見えた。 漁師は小舟を捨て、人がようやく通れる狭い口に入り、数十歩進むと、パッと明るく開けた。 眼前に広がったのは、明るい光にあふれた豊かな農村の風景だった。 鶏が鳴き犬の吠える声が聞こえてくる。 村人たちは漁師を見て驚き、どこからどうやって来たかを問い、答に驚いて、一軒にいざなって、酒を供し鶏を殺して歓待した。 村中の人がやってきて、いろいろと質問する。 桃源の村から同じ経路で武陵に帰った漁師は、村人との約束を破って郡の太守に報告、太守は部下を彼に従わせて桃源への道を探らせたが、一行は道に迷い挫折、二度と村に行きつけなかった。
芳賀徹さんは、陶淵明の「桃花源記」が東アジア諸国の文化の中に「桃源郷」という一つのトポスをつくりあげ、流布させ、中国、朝鮮、日本の文学と美術に長く影響を及ぼしたとして、多くの実例を考証する。 それが日本の文藝や絵画で、まさに桃花のごとき花盛りの季節を迎えたのが、「桃源の国 徳川日本」だという。 桃源の詩画人、與謝蕪村は、俳体詩「春風馬堤曲」で、老俳諧師と「容姿嬋娟(せんけん)」たる薮入りの一少女との道行という体をとりながらも、大坂郊外の土堤を舞台に、日本化された一篇の桃源遡行の詩を描いた。 娘は故郷の部落への分れ道、黄や白に咲くたんぽぽの群生する「捷径」に入った。 洞門の中の暗闇がほのかな光で漁師を誘ったように、娘は母在(いま)す方(かた)への「捷径」を下る。 蕪村も、『草枕』の夏目漱石も、桃源へのアプローチの意味の深さをよく会得していたと、芳賀徹さんは言う。
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