入船亭扇辰の矢野誠一作「蕎麦の隠居」後半2023/04/06 07:09

 あくる日もご隠居が来た。 お蕎麦を四枚。 蕎麦、四丁! いかにも美味しそうに、つるつるっと食べる。 外国の人は、音を立てて食べるのを、下品だというけれど…。 蕎麦つゆ、あんまりつけ過ぎてはいけない。 蕎麦の裾の方で、つゆをなめる。 つるつるっとやって、口の中で、ちょうどいい塩梅になる。 蕎麦つゆをたっぷりつけのは、野暮になる。 おいくら? 六十四文で。 ご内所の主はおいでか? ご存知の主です。 蕎麦屋を営んで、何年になる? 親父の代からの蕎麦屋で、花番、打ち手、釜前、中台と修業して、八年前に親父を亡くして継ぎましたが、子供の頃からの蕎麦屋暮らしで…、今年は四十二の厄年になります。 これは何だ? 蕎麦つゆ、吟味しております。 醤油は野田、味醂は備後、よそには負けない味かと。 ちょっと、なめてごらん。 まだちょっと温ったかい。 ぬる燗は、いけません。 つゆで、蕎麦の味が変わる。 お代はここに置く。 ご免!

毎日やって来て、叱言を行って帰る。 たまりません、明日は店を閉めるか。 四枚が八枚、八枚が十六枚、今日は三十二枚に上がった。 それでまず半分の十六枚を出した。 これが、叱言だ。 三十二枚、積んで食べるから、美味しい。 四十二の厄年は、本当にあるんだ。

あくる日。 また、あのご隠居が。 お蕎麦を六十四枚。 蕎麦、六十四丁! 六十四枚、いっぺんに出す。 ドスンと置くと、蕎麦の垣根が出来たよう。 つるつるっと、見事な食べっぷりだ。 蒸籠(せいろ)がどんどん積み重なる。 おいくら? 一貫と二十四文。 旦那を呼びましょうか? ああ。 親父の代からの蕎麦屋で、花番、打ち手、釜前、中台と修業して、八年前に親父を亡くして継いだ、子供の頃からの蕎麦屋暮らしで…、今年は四十二の厄年になるんだろう。 すっかり、覚えて頂いて。 蒸籠を見ろ、木組みに赤や黒のがある。 物は器で食わせるものだ。 お代は、一貫でよろしゅうございます、二十四文はおまけで。 お金は、お宝という、一文をないがしろにするものは、一文に泣く。 千里の道も一歩から、ローマは一日にして成らず、と言う。

アーーッ、明日は店を閉めます、倍倍と来ている。 百二十八枚、いっぺんに出せるかい。 大勢手伝いを頼んで、一生懸命にやります。 どんどん台所へ。 揃いの蒸籠、百二十八枚、河童橋で調達する。 そろそろ、隠居の来る時間だ。 町内の噂になっていて、見物が大勢、二重三重の人垣ができる。 屋根の上から見物する、高みの見物も。 あの隠居、胃が三つあるんじゃないか、胃さんというから。 来た来た! はい、ご免。 何を、差し上げましょう? お蕎麦を、半分。