暗殺の警戒、新政府に出ず、対等な交際2023/05/21 07:26

 土居良三さんの『咸臨丸海を渡る』(未來社・1992年)を引っ張り出してみたら、中浜万次郎の咸臨丸渡米以後についての記述があった。 万延元年5月咸臨丸で帰国して後間もなく、8月にアメリカ商船の船長と会って話をしたというだけのことで、教授方を免職された。 攘夷熱の燃え上がる時期だったからであろう。

小笠原諸島の領有権確定のため、小野友五郎艦長の咸臨丸が出たとき、万次郎も協力、活躍しているが、これから後になるに従って、万次郎の動きは受け身になったように思われるという。 求められれば動き、それなりの貢献をするに吝かではないように見える。 後藤象二郎に頼まれて一緒に上海に行き軍艦を買い付けたり、鹿児島に招かれて開成所で教えたり、大山巌の普仏戦争観戦に同行したりしている。 自分で主体的に何かを企画し行動した跡はないという。 いくら誘われても薩長の新政府で出世する気はなかったし、余計なことをして誤解され狙われることを晩年に至るまで用心していた。 何時もピストルを身から離さず、仕込杖も持っていた。

 土居良三さんが、万次郎の曾孫中浜博さんの『私のジョン万次郎』(小学館・1991年)を読んで、最も感銘したのは、万次郎の乞食に対する態度だという。 乞食は「怠け者だから、金をやることはない」と家人に言われたとき、「それくらいのことは知っている」と言い、「そのような運命に落ちた人たちが可哀そうなのだ」と諭したという。 家族で外食した場合、必ず残り物を折箱に詰めさせて、帰途乞食に与えた。 相手がどれだけ高い地位にいても金持でも、万次郎は少しも媚びることなく、乞食と同じく対等に交際(つきあ)った。 中浜博さんは、福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉をごく自然に行っていたと、書いているそうだ。

 松永安左ェ門さんの思い出によると(『人間福沢諭吉』実業之日本社・1964年)、福沢は散歩党との毎日の散歩で、子供がいれば、子供をあやし、老人がいれば、老人をいたわったという。 オカマという一風変った男乞食がいたが、福沢は折々、菓子や小銭を持って行ってやり、まるで友達のように談笑していたそうだ。 『福翁自伝』にある、母お順の女乞食とのエピソードを思い出す。

 中浜博さんの本には、万次郎がどんな人とも対等に付き合うという点で勝海舟にも通じるところがあるという。 咸臨丸で勝から万事お前に任すと言われたそうだが、晩年も勝と親しく、孫の鉄男さんの話によると、深川砂町の万次郎の自宅にもよく来たり、料理屋や浅草のうなぎ屋「やっこ」で一緒に飯を食ったりしている。