万延元年遣米使節団の通訳2023/05/22 07:08

 中浜万次郎が咸臨丸で遣米使節に通弁主任として随行し、福沢諭吉と一緒だったことから、福沢の三度の洋行に通訳として同行した顔ぶれのことを考えた。 三度目、つまり二度目のアメリカ行き、慶応3(1867)年、小野友五郎の軍艦引取り交渉の遣米使節の時の通訳として、津田梅子の父、津田仙が、福沢、尺振八と三人で随行した。 それを、津田梅子の父、仙<等々力短信 第1153号 2022(令和4).3.25.>に、書いていたからである。

 万延元(1860)年遣米使節団は、日米修好条約の批准書交換のため、外国奉行新見(しんみ)豊前守正興を正使とした本体は米艦ポーハタン号で渡米し、別に軍艦奉行木村摂津守喜毅、勝海舟らは咸臨丸で随行した。

 服部逸郎さんの『77人の侍アメリカへ行く 万延元年遣米使節の記録』(講談社文庫・1974年)の77人は、使節団本体の方で、その構成に「通弁方(Interpreters)」として3人の名前が挙がっている。 名村五八郎元度(もとのり)(箱館奉行支配定役格通詞)34歳、立石得十郎長久(阿蘭陀通詞)32歳、立石斧次郎教之(のりゆき)(通詞見習、得十郎倅)17歳、である。 随行の咸臨丸の方は、「通訳方」として中浜万次郎が挙がっているだけで、福沢諭吉は、木村従者という資格である。 『福澤諭吉事典』には中浜万次郎は「通弁主任」とあるが、ほかの「通訳方」はいない。

 『福澤諭吉事典』を見たついでに、索引で名村(五八郎元度)を探したら、「名村八右衛門」があり、「福地源一郎」の項に「安政3(1856)年(2年説もある)オランダ大通詞名村八右衛門に蘭学を学び、一時その養子となる。」とあった。 ネットを検索すると、名村五八郎元度は、その名村八右衛門(名村元義、貞四郎、貞五郎とも名乗る)の長男であること、一般社団法人・万延元年遣米使節子孫の会という会のあることがわかった。

 遣米使節団副使の村垣淡路守与三郎範正は、外国奉行兼神奈川奉行兼箱館奉行、安政3年北方警衛・ロシア船対策のため蝦夷・樺太に派遣されたが、名村五八郎はその通訳・翻訳の任にあたった。 安政期、箱館には英国領事ホジソン、米国貿易事務官ライス、露国領事ゴスケヴィッチが駐在していて、通訳が必要で、名村五八郎は在勤を命じられた。 村垣淡路守範正は、遣米使節団副使として派遣されることになり、名村を首席通詞として随行させたのである。