「蘭学」を通じ、いち早く西洋学術に触れていた2023/05/27 06:52

 大久保健晴さんの『今を生きる思想 福沢諭吉 最後の蘭学者』で、今まで聞いたことのない見方だと思ったことがある。 言われてみれば、なるほどなのだ。 福沢のいわゆる英学発心、安政6(1859)年の横浜見物でオランダ語が通じず、看板もビンの張り紙も読めずに落胆して、蘭学から英学へ転向したエピソードである。 大久保さんは『福翁自伝』を、精緻に読み解く。 福沢はまず「ホルトロップという英蘭対訳発音付の辞書」を入手した、そして「ただその字引と首っ引きで毎日毎夜ひとり勉強」し、「英文の書を蘭語に翻訳して」、英語を学んだ。 適塾で死にもの狂いで勉強した蘭学の蓄積があったからこそ、英語に独力で挑むことができた。 「蘭書を読む力はおのずから英書にも適用して決して無益ではな」かった。 蘭学の蓄積を基礎にしながら、西洋学術を学ぶ言語の軸足を英語へと移したのである。

 さらに、これは決して、語学の学習方法のみに限られたことではない。 福沢は晩年に至るまで、自らの学問の源流が、近世徳川期の蘭学にあることをくりかえし指摘している。 大久保さんは、福沢諭吉の学問や政治思想を語るには、彼自身がその源流に位置づける蘭学から解き明かさなければならない、とする。

 日本政治思想史の分野では、儒学をはじめ、徳川日本における豊饒な学問思想の様態に光が当てられてきて、最近では、伊藤仁斎や荻生徂徠ら徳川初期の儒学とともに、徂徠以後に花開いた豊かな学芸として、折衷学派や考証学派、漢詩文の世界、国学、蘭学、あるいは頼山陽の歴史書をめぐり、さまざまな角度から検討が加えられている。 儒者や蘭学者、国学者の間で、漢籍や蘭書、日本の古典の解釈をめぐって対等に討議する「会読」と呼ばれるスタイルを用いた読書グループが形成され、議論・討論を積極的に重んじる学習方法が普及したことも明らかにされている。 18世紀後期から19世紀の日本では、これまで考えられていた以上の広がりと深みをもつ文人ネットワークを通じた知の交流が図られていた。

 幕末から明治へ、政治社会は「革命」的に変わった。 この大きな動乱のなか、福沢が鋭く冷静な洞察を提示できたのは、徳川期から「蘭学」を通じて、いち早く西洋学術に触れていたからに他ならない。 徳川日本は、文化的な成熟を背景に、部分的とはいえ世界に開かれていた。 その際、当時の学者たちが世界の学問を知るための手がかりにしたのが、蘭学であった。 大坂の適塾で蘭書の原典に挑み、「会読」を通じて西洋文明への理解を深めた福沢諭吉は、徳川日本における最後の蘭学者の一人であった、と大久保健晴さんは言う。