「慶應義塾之記」、「蘭学」の伝統と「洋学」2023/05/28 07:33

 福沢諭吉が慶応4(1868)年4月、塾を築地鉄砲洲の中津藩中屋敷から芝新銭座に移し、「慶應義塾」と命名した際、小幡篤次郎が文案を起草し、福沢が加筆した「慶應義塾之記」は、志を同じくする人々が互に切磋琢磨しながら「洋学」を講究する機関として、今ここに「義塾」を創立すると宣言する。 「士民を問わずいやしくも志のあるもの」、つまり武士や平民という身分を問わず、志があれば来学を歓迎する、と表明した。

 そしてまず、「洋学」の来歴として「蘭学」の歴史が語られる。 安政6(1859)年の横浜見物から10年近く経っているのに、だ。 「洋学」の起源は、オランダとの通商交易に携わった長崎のオランダ通詞に遡り、青木昆陽、前野良沢、杉田玄白らが「和蘭の学」を志すなかで「洋学」の基礎を築き、日夜、寝食を忘れて研究に取り組み、ひたすら「自我作古の業」に専心、大槻玄沢、坪井信道、箕作阮甫らを経て、緒方洪庵に至り、「読書訳文の法もようやく開け」、多くの翻訳書が公刊され、こうして「蘭学」が成熟した。

 そして、嘉永年間のペリー来航を契機にアメリカをはじめ西洋諸国と諸条約を結ぶなかで、「世の士君子」はみな、西洋世界の事情に通じることが「要務」であることを知るようになる。 ここに至って、オランダ語を媒介に「医」学ならびに「窮理、天文、地理、化学等の教科」を中心とした「蘭学」は、西洋諸国の諸言語を学び「百般の学科」を対象とする「洋学」へと発展した。 ただし、「蘭学」と「洋学」は決して断絶して捉えられるものでなく、「蘭学」自体が徳川日本の「洋学」であり、ペリー来航以降の「洋学」の起源である。

 そう論じたうえで、福沢と小幡たちは、高らかに主唱する。 「洋学」の教育と探究を目的とする「吾が党」慶應義塾もまた、「古人の賜」、すなわち徳川期における「蘭学」の学問的伝統のうえにこそ成り立つ。 この命脈を引き継ぎ、「洋学」を世の中に教え広めるのが慶應義塾の使命である、と。

 こうして福沢諭吉は、「慶應義塾」の誕生に際し、自分たちの学問は「蘭学」の分厚い蓄積と精神を継承し、それを基礎に新たな「洋学」の道を切り拓くものであると強く主張した。 福沢はこの学問観と歴史認識を生涯にわたって抱きつづけた。 と、大久保健晴さんは指摘している。