小幡篤次郎と福沢諭吉2023/05/29 06:56

 5月20日、公開講座「小幡篤次郎の再発見」の第1回、西澤直子さんの「小幡篤次郎小伝」を聴きに、三田キャンパス東館6階G-lab(この部屋は初めて)へ行った。 慶應義塾福澤研究センター・福澤諭吉協会共催の、『小幡篤次郎著作集』刊行記念の公開講座で、12月まで全5回の予定である。

 その内容は、あとで触れることにして、大久保健晴さんが参加していた、去年8・9月号『三田評論』、川崎勝さん、西澤直子さんとの三人閑談「小幡篤次郎を読む」を読んでみたい。

 川崎勝さん「ウェーランドというと福沢だけれど、ウェーランドの原書を買ってきたのは小幡です。英語の書物については小幡の着眼点は非常に優れていた。それで小幡が「これ、面白いよ」と福沢に渡したのを福沢が読んでいくというような関係ができていたのではないか。だから、両者は相互関係にあった。」

 大久保健晴さん「これまでは福沢諭吉という光があまりにも強すぎ、小幡はその右腕という位置付けでしかなかった。しかし、実際には互いに切磋琢磨し、福沢自身も小幡から多分に影響を受けていたのかもしれません。『文明論之概略』でも、福沢は緒言の中で、「就中(なかんずく)、小幡篤次郎君へは特にその閲見を煩わして正刪(せいさん)を乞い、頗る理論の品価を増たるもの多し」と記しています。」

西澤直子さん「私は、小幡は福沢とはまた別に、明治の近代化社会をどうつくっていくべきかを考えていたと思います。彼の封建制から郡県制にどうかわっていくのかという視点は、単に徳川からの変化ではなく、六百年来の変化を考える中で封建から郡県への転換をどうしていくのかという関心だと思います。その中で、慶應義塾で何を学生たちと一緒に読み、議論すべきかを考え、トクヴィル、あるいはミル、それから海外の宗教論などを翻訳・紹介してきた。小幡は学生を教え、一緒に議論しながら、自分の著作にまとめて行ったのではないかと思います。」

「小幡の中では「吾党(わがとう)」という意識がすごく強くあり、福沢とは別の考えを持っているのだけれど、一つの大きな仲間内であるという意識は持っていたのだと思います。そして、だんだん吾党のために小幡が背負う部分が多くなっていってしまった。明治十年以降、西南戦争があり、義塾の経営が傾いていくと、義塾を維持していかなければという気持ちが小幡は福沢よりも強く、その仕事がどんどん増えていった。福沢は亡くなるまで本を出し続けますが、小幡は明治二十一年を最後に、単行本は出していない。また交詢社は福沢が書いているように、発案も小幡であると思いますが、その実務は彼で、「時事新報」にしても、福沢がどれだけ記事の校閲をしたかは怪しいし、小幡の負担はどんどん大きくなっていったのではないかと思います。」

「なぜ小幡が地方自治に関心を持ったかと言えば、中津藩の上士階級に生まれたということが大きかったと思います。実際に版籍奉還以後、廃藩置県までの中津藩の行政を担った人たちは小幡の仲間だった人たちで。」

「小幡の著作、特に明治十年ぐらいまでの著作はとても重要です。それは小幡を知るだけではなく、その時期に日本に訪れていた変化がどんなものであったかを知るためにです。それを知ってもらうことに『著作集』刊行の一番の意義があると思います。」

福澤諭吉協会・慶應義塾編『小幡篤次郎著作集』(慶應義塾大学出版会)は現在、第1巻、第2巻まで、刊行されている。

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