令和五年『夏潮』「雑詠」掲載句 ― 2024/01/01 08:02
一月号
コスモスも御接待なる遍路道
ディスプレイ夜業の顔を照らし出し
二月号
末枯や何かと傘寿鼻にかけ
徒然に檸檬転がす掌
強さうなぬすびとはぎも末枯れて
三月号
ポインセチア閑居一隅明るくし
冬ざれの八十路の坂の嶮しかり
四月号
そそり立つメタセコイアに月の冴ゆ
冬の月ルオーの街を照らしをり
ケータイに友の訃報や冬の月
数へ日ののどか賀状も出し終へて
五月号
ロゼットの蒲公英花を上げんとす
江戸からの上水に沿ひ冬の草
はちやめちやの新作落語笑ひ初め
六月号
(締め切り遅れ掲載無し)
七月号
静けさをまとひて立てる山桜
夕まぐれ棚田に茅花吹かるるよ
卒業の子ら手をつなぎ青き踏む
(前号追加)
春の海ゆるり休めと言ふ如く
まんまるに門の白梅刈り込まれ
八月号
麗らかや芝生に円くジャズ囲む
白牡丹男鰥の塀際に
ネモフィアの太平洋へなだれこみ
九月号
紫陽花に音なく雨の降りかかる
鬼灯の律儀に花を開きをり
今年また歯医者に通ふ梅雨の頃
十月号
沖の島見ゆる高さに簾巻き
西向きの安アパートや青簾
温泉の桶音響き伊予簾
十一月号
暑い暑いとなまけ心を甘やかし
土用鰻ふんはりが好き江戸風の
十二月号
笹舟の形の器水羊羹
いつの間に莟立ち上げ玉すだれ
昭和21年、住友財閥令嬢誘拐事件 ― 2024/01/02 07:52
川本三郎さんが新潮社の『波』に連載している「荷風の昭和」は、微に入り細を穿って、まことに興味深い。 10月号の第65回「「五叟日誌」に見る戦後の世相」。 永井荷風は、昭和20年3月10日早暁の大空襲で麻布市兵衛町一丁目(現、六本木一丁目、麻布台ヒルズの近く)の偏奇館を焼け出され、従弟で長唄の三味線方、前年その次男・永光を養子に入籍していた、代々木の杵屋五叟(大嶋一雄)宅にたどり着く。 中野区住吉町の国際文化アパートに移居して、5月25日の空襲で再度罹災、駒場を経て、明石から岡山へ行き6月28日みたび空襲罹災。 敗戦後の9月1日から、熱海に疎開中の杵屋五叟方に合流。 昭和21年1月16日、杵屋五叟一家とともに、千葉県市川市菅野に移って、そこに二年間寄寓する。
その昭和21、2年は、まだ日常のなかに戦争の傷跡が残っており、戦後社会は混乱が続いていた。 当時の世相、社会・風俗・人物などが、杵屋五叟の「日誌」(『五叟遺文』1963年・私家版)に、同居した永井荷風のこととともによく描かれている。 その昭和21年9月23日には、当時、世間を騒がせた少女誘拐事件のことが記されている。
「新聞を賑はせし住友男(注、男爵)の令状を誘拐せし犯人中津川附近不知(注、正しくは、岐阜県の付知(つけち))と云へる処にて捕はる。令嬢は無事を得しと、余不審にに堪へず、該犯人は某工場重役令嬢を先にも七ケ月も誘拐し、北は北海道より九州にかけ逃げ歩き親元より一万五千円をせしめしと報ぜらる。両令嬢とも十二三歳なり。犯人の奸智人に勝れて鮮なるものか、少女を惑はす特異性あるものか、興味ある事なり」
この少女誘拐事件は、大財閥、住友家の小学六年生の女の子が、鎌倉に近い片瀬にある湘南白百合高女附属初等科の学校帰りに何者かに連れ去られ、行方不明になった。 五叟は、自分にも同じ年頃の娘がいるので、この事件に関心を持って日記に記したのであろう、と川本三郎さんは言う。 五叟が不思議に思ったのは、十二、三歳になろうとする女の子が、犯人のいうままに逃避行を続けていたことだ。 野口冨士男はこの事件を題材に後年、「少女」という小説を書き、『新潮』昭和60年9月号に発表しているが、そのなかで、誘拐された少女が、次第に犯人の青年になついてゆく様子を描いている。 川本さんは、今日でいうストックホルム・シンドロームだとする。 1973年にストックホルムで起きた銀行襲撃事件で、人質が犯人に共感したことから、被害者が加害者に心を寄せる心理をあらわしている。
犯人は復員兵だった。 黒澤明監督の昭和24年の作品『野良犬』の木村功演じる犯人が復員兵だったように、復員兵が社会復帰出来ずに犯罪に走る例は、戦後の混乱期を象徴する犯罪だった。
五叟は、3日後の9月26日、金沢に演奏に出かける。 金沢は、京都、鎌倉と同様に、空襲の被害が少なかった町。 三味線の公演の余裕があったのだろう、と川本さんは書いている。 11月20日の当日記に記したように、金沢は能楽「加賀宝生」の町なのである。
昭和21年9月、私は4歳5か月、少女誘拐事件の新聞を読んだ記憶はない。 昭和24年1月26日の法隆寺金堂壁画の火災は読んでいたのだが…。
野口冨士男さんのご子息平井一麥さん ― 2024/01/03 07:40
昨日書いた住友財閥令嬢誘拐事件に題材を取った野口冨士男さんの「少女」を読む前に……。 「等々力短信」第1161号 2022(令和4).11.25.「子の親を思ふ」に、野口冨士男さんのご子息平井一麥さんが、いかに父親のことを思って、努力活動されてきたかを書いた。 「子の親を思ふ」という題は、その年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にちょうど源実朝が出て来ていて、実朝の歌<ものいはぬ四方の獣(けだもの)すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ>をひっくり返したのだった。
2021年は、野口冨士男さん生誕110年、一麥さん傘寿の年だったが、一麥さんの父を思うお気持と努力が花開いた年でもあった。 野口冨士男さんの本が五冊も出て、「少女」は『風のない日々/少女』(中公文庫)に収録されている。 『八木義徳 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店)は、「野口冨士男日記」の翻刻、「野口冨士男書誌」の編纂をしていた一麥さんが、中心になって編纂した。
埼玉県越谷市の市立図書館に、「野口冨士男文庫」がある。 直子夫人の出身地で、終戦直後一家でここに移住し、海軍応召時の栄養失調症を癒した縁で、生前から取り決めを交わし、平成6年大量の資料が同図書館に寄贈されて開設、以降、毎年秋に講演会と特別展を開催し、小冊子『野口冨士男文庫』を発行している。 「野口冨士男文庫」の活動にも一麥さんが深く関わっていて、『野口冨士男文庫』24号に2021年11月13日の一麥さんの「父 野口冨士男を語る」講演が収録されている。
しかし、平井一麥さんは残念ながら2022年9月27日、その前年の奮闘に力尽きたかのように亡くなってしまった。
12月20日、第50回大佛次郎賞に平山周吉さんの『小津安二郎』(新潮社)が決まったと報じられた。 私はX(旧ツイッター)で、「平井一麥さんがいたら、大喜びしたでしょう。父、野口冨士男さんの越谷図書館の件で大変お世話になっていましたから。」とつぶやいたのだった。
小説「少女」、誘拐から少女との逃避行 ― 2024/01/04 08:11
川本三郎さんの『波』連載「荷風の昭和」で知った、昭和21年の住友財閥令嬢誘拐事件を題材に野口冨士男さんが書いた小説「少女」を読んだ。 講談社文芸文庫『野口冨士男短篇集 なぎの葉考 少女』(2009年)、中公文庫『風のない日々/少女』(2021年)所収。
「左腕が、ジーンとしびれている。/ほとんどもう、耐え難いと言っていい痛さである。」と、始まる。 小倉恭介は、上野駅午後十時発の直江津行普通列車に乗って二時間ちかくしか経っていないが、発車してからまだ十分とたたぬうちに「ゆたか」は指が長くていたいたしいほどほそい両手で恭介の左腕へすがりつくようにしながら、幅のせまいふちがある薄鼠色の学童帽をかぶったままのオカッパ頭をよせかけて眠り込んでしまった。 一昨日からあっちこっち引きまわされてるんだから、無理もない。 野口冨士男さんは、鉄道趣味があったのだろうか、「歴史のダイヤグラム」の原武史さんが喜びそうな小説だ。 乗車券は、松本まで買ってある。 そのためには、明日の未明というより深夜に篠ノ井で乗り換えねばならない。
今朝がた、千葉駅で買った新聞には、「娘の恐怖時代 誘拐しきり 学校帰りを誘ふ 杉富氏の長女謎の行方」の見出しで、「ゆたか」の和服の晴着姿の写真も掲載されていた。 横浜市戸塚区の杉富家当主茂兵衛氏の長女ゆたかが、17日午前11時半ごろ片瀬町の芙蓉学園から帰宅途中、「警察の者ですが、お宅に重大事件が起こりましたからいっしょに来てください」と言った男に連れ去られ、18日の午後になっても帰宅せぬために、警察と杉富財閥の全機関をあげて捜査中である。 同家には脅迫状は送られていないので、目下のところ犯行の目的その他はいっさい不明だとしている。
恭介が、校門から一丁ほどのところで声をかけ、二人で歩きはじめながら、あなたを保護してあげるから心配しなくてもいいと言うと、ゆたかはその言葉をそのまま信じたとも思われないのに、ぴったりと彼の脇に寄り添って、どこまででもついてきた。 その疑うことを知らぬ無垢な態度は、むしろ薄気味が悪いほどだった。 江ノ電で鎌倉に出て、海兵団で半年ほどすごした横須賀まで行くと俄に考えをあらためて、東京へ引き返した上、秋葉原から総武線で津田沼へ行き、一泊した。 神奈川県下で発生した事件の捜査が、千葉県まで及ぶことはあるまいと考えたからだった。
翌日は千葉市に行き、時間潰しに映画館に入って、アメリカの喜劇映画を観た。 ゆたかはよほど興味をひかれたらしく、スクリーンに見入っていた。 繁華街でみつけた百貨店に入って、ふと眼についた化粧袋というものを買い与えた。 中年の女店員にたずねると、バニシングクリームから白粉、口紅、頬紅のほか鏡と櫛までセットになっていて、大人の真似をしたがる歳ごろの娘にと言って土産に買って帰る親が多いとのことだった。
二日目は稲毛の宿に泊った、千葉や市川のような都市を避けたのも、逃亡者心理からである。 まだ日が暮れぬうちに入浴をすますと、ゆたかは恭介の許可が出るのを待ちかねたように化粧袋の封を切って、粗末な鏡台の前で見よう見真似の化粧をはじめた。 恭介がギクリとするほどゆたかの顔は変った。 美しさが、いちだんと輝きを増したことは事実であったが、それは美少女というより、どこか大人っぽい美女の顔であった。 恭介は、洗面所にともなって行き、急いで化粧を落とさせた。
「お兄ちゃんは、お化粧なんかしていないたか子のほうが好きだ。お化粧なんかしなくても、たか子はほんとに可愛い」
言っているうちに、恭介の眼には涙があふれて来て頬をつたった。 ゆたかはなかば茫然としながら彼の顔を見ていたが、彼女なりに恭介の気持を理解したのか、化粧袋の紐をしめて彼に渡そうとした。
たか子とは、ゆたかという三字名の、たかを残して子をつけた偽名で、本名を呼びかけたばあい、いつどこで誰に聞かれるかもしれないという用心に、恭介が考えたものだった。
一日でも二日でも長くこの子といられるように ― 2024/01/05 07:22
冒頭の上野駅午後十時発の直江津行普通列車に乗るまでだが、千葉から東京に戻ると、浅草からまだ戦禍の痕跡を多分にとどめている隅田川周辺をあちこち歩いた。 ゆたかがどこまででもついて来ることによって、彼女が自分を怖れていないことは明らかである。 映画をみせてやったときも、化粧袋を買ってやったときも口はきかなかったが、小さな唇のはしに微笑のようなものを一瞬ただよわしたのを、恭介はみのがしていなかった。
上野駅ちかくの屋台と大差ない程度の店へ入った。 一人前ずつの鮨を食べていて、「おいしい」とたずねると、めずらしくこっくりとうなずいたのと同時であった。 店の隅にある棚の上の箱型のラジオが、行方不明になった杉富家令嬢のニュースを報道しはじめた。 心臓がはげしく脈を打って、鼓膜にガンガンひびいた。 アナウンサーの声を彼女の耳に入れたくないという一心から、急用を思い出した風をして、お釣りも受け取らずに、外へ出た。
ラジオ放送後すぐ駅に行かないよう、広小路から御徒町や山下にかけて何度もぐるぐる歩きまわってから、駅の構内に警官や刑事が張り込んでいる気配を感じ取って、松本までの乗車券を買った。 視線もゆたかからそらして切符を持たせると、うしろを振り向くなと言いふくめて、上野駅の捜査網を突破することに成功した。
逃亡者はつねに現在地を危険視して、そこからすこしでも早くはなれたい思いで先を急ぐので、急行をえらぶのが当然の心理だろうと考えた彼は、警戒の裏をかくつもりで普通列車にしたが、深夜の鈍行は期待以上に、空席が多かった。
杉富家の宏壮な邸宅には、ふだん弘子夫人と長女ゆたか、次女かをりの三人が数人の使用人と居住していて、当主の茂兵衛は七月はじめから長野県の菅平にちかい角間温泉の別荘に行ったままだ。 恭介は、ゆたかがいまも自分のような見ず知らずの男の腕にすがりついて眠っている理由のほんの一端にせよ、原因のよってきたるところを垣間みせられたように思った。
篠ノ井線に乗り換えて松本へ到着したのは、まだ夜の明けぬうちのことだった。 駅前の一膳飯屋のような店で、四日目の朝食をとり、堀端をゆっくり一周して、駅前に戻り気温の低さを思って、洋品店でゆたかのために紺色のスエーターを買った。 「お兄ちゃんのは」買わなくていいのかと、ゆたかがたずねたので、思わず胸がいっぱいになった。 野球帽を見て、一日でも二日でも長くこの子といっしょにいられるようにするために、男の子に変装させるのも一つの手ではないか、と思い、野球帽とズボンも買った。 また、映画館で時間をつぶしてから、市街地をややはずれた古ぼけた安宿に泊った、追加料金を払えば、翌日の昼食もさせてくれるという。
朝食をすませると、恭介はひとり駅へ行き売店で新聞を買った。 今月初め、海兵団にいた時の兵長に偶然会って、目白の邸宅の清掃の仕事を手伝い、そこの饒舌な少女妙子から芙蓉学園で同級だった杉富ゆたかの話を聞いて、誘拐を計画したのだった。 新聞では、報道で知った目白の邸宅からの通報で、小倉恭介という氏名も突き止められており、妙子の談話まで掲載していた。
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