三遊亭兼好の「陸奥間違い」前半 ― 2024/05/01 07:00
三遊亭兼好は、光沢のあるグリーンの着物に、グレーの袴で、元気よく始めた。 間違いというものがある。 落語でも、子供の名を金坊で始めた師匠が、亀吉で終わったりする。 志ん朝師匠が「八五郎出世」の「妾馬」を、熊五郎で始めてしまい、それで通していたけれど、お終いで安心したのか、「八五郎出世というお目出度いお噺で」とやった。 楽屋の方はというと、間違いだらけ、面白けりゃあいい。 ネタ帳に、いろいろある。 「子ほめ」を「小ほめ」。 「強情灸」が「強情炎」。 「たがや」を「だがや」、名古屋かい、これ。 「町内の若い衆」が「町内の若い象」、アフリカか。 「半分あか」を「ハンバーガー」。 「猫と金魚」が、ちょうど師匠が楽屋にいたのか「猫と金馬」。 こういうのは笑い話で済むけれど、学校の先生や医者では、間違いでは済まない。 もっとも、間違って乗って事故に遭わなかったとか、間違った道で金を拾ったとか、間違って女房と出会ったとか、いうこともある。
神田小川町に穴山小左衛門という貧乏な小役人がいた。 直参の旗本にも、御目見得という将軍に会える威張ったのから、それ以下の御家人がいた。 穴山は貧乏のカタマリ、楊枝を削ったり、傘を張ったりしているが、月末の払い三十両が工面できない。 友人に借りられないだろうかと女房に相談すると、近藤様はどうかと言う。 近藤には、十両貸してくれないかと言われた。 昔、隣に住んでいた松野様は? 松野は、出世して松野陸奥守になったが、引っ越し祝いもしていない。 では、まずお手紙を、ということになる。 松野陸奥守は御祐筆で字が上手いので、穴山も手紙を丁寧に書く。 田舎から出てきたばかりの中間の権助に、芝口三丁目の松野陸奥守宅に届けさせることに。
ごめんなせ、どこさ行くか忘れた、と床屋の親父に聞く。 オラ、どこへ行くべかな、この手紙を読んでもらいたい。 読んでおくから、二、三日したら来てくれ。 あら、悪かったな、読めないのか。 いいや、あちこちの手習い所を渡り歩いたんだ。 米屋のご隠居に、読んでもらおう。
闕字(けつじ)が使ってある、奥ゆかしい。 塩梅が悪いのか、ケツが痔で、奥が痒いのか。 闕字、目上の人に手紙を書く場合、宛名の文字の一部を空白にする、「酒井雅楽守」を「酒 雅楽守」と書くんだ。 これは「松 陸奥守」だから、松井、松沢かな。 旦那様が、昔は隣に住んでいた兄弟分だが、大した出世で、芝にお住まいだと申してました。 それなら「松平陸奥守」だ、仙台侯、六十二万石の大大名だ。
凄いお屋敷だ、間違ってんな。 こちらは、松ダーーラ様でしょうか。 日本人か、お前は。 隣に住んでいた兄弟分の、穴山小左衛門の使いの者で。 お使いの方ですか、使いの間へどうぞ。 ハハーーッ、拙者は使者請(うけ)の渡辺次郎左衛門と申します。 穴山小左衛門、先の兄弟分の使いの者で、この手紙をお渡しすれば分かるそうで。
穴山って誰だ。 大名の武鑑を、初めから終わりまで、ひっくり返して調べたが、ない。 芸人帳を調べたが、ない。 念のため直参も調べると、御終いにあった。 台所付小役人、凄い貧乏。 いったい、誰なんだ。 殿様と兄弟分と、お聞きしましたが。 闕字が使ってあるぞ。 エッ、嘘、お金を貸してくれ、男の中の男と見込んで、と。 三十両…、三千両の間違いであろう。 委細承知、仕った。
待たされている間に、大広間に通され、女中がズラーーッと居並ぶところで、酒、肴のご馳走になった。
三遊亭兼好の「陸奥間違い」後半 ― 2024/05/02 07:04
権助は遅いな、田舎者で道に迷ったんだろう。 只今、戻りました。 なんだ千鳥足で。 御馳走してもらいました、女中方がズラーーッと居並ぶ大広間で。 すごい御馳走だったんで、お弁当をもらって来ました。 アッ、漆の重箱に「竹に雀」の紋がある、これは伊達様だ、馬鹿ッ! 正式の使者は、後程いらっしゃるそうで。 誰に聞いた? 使者請の渡辺次郎左衛門様で。
話を聞いているところに使者が来たが、六畳一間、使者の間はない。 殿よりお下げ渡しの金三千両です。 これは、間違いで。 松野陸奥守と、松平陸奥守を間違えました。 お返しいたします。 それはいかん、手紙に男の中の男と見込んで、とあったので、殿がお下げ渡しになられた、この金を受け取らなければ、腹を切らねばならぬ。
隣の森川伊豆守なら物に長けておるので、聞けば、どうしたらよいか分かるかもしれません。 権助、すぐに聞いて参れ。 森川伊豆守は、お城におる、と。 伊豆守様に伺いたくて参りました、三千両を受け取るか、返すか、男が生きるか、死ぬか。 伊豆守…、まさか知恵伊豆様で。 松平伊豆守、日本一の知恵者、明暦の大火の折にも、大奥の女性たちを畳をひっくり返して、みな無事に逃がした。 知恵伊豆は、話を聞いて、上様に伺ってみようと言う。 四代将軍、徳川家綱、何事も「そうせい」、「そうせい」と、丸く収めるので、「そうせい公」と呼ばれている。 上様から、伊達様に褒美を取らせることになった。
権助、只今帰って参りました。 松平伊豆守、やさしい人でした。 上様が、伊達は外様、内輪でもらっておけ、「そうせい」とおっしゃったそうで。 「陸奥守」がいくつもあるのが間違いのもとだ、伊達様のご褒美は、「陸奥守」は伊達の一家にするということであった。 外様の伊達家にとって、こんな名誉なことはない。 大名を十五名集めて、大宴会を催し、その末席に穴山小左衛門と権助も呼ばれた。 この大広間の宴会、権助は、俺二回目で、間違いをすりゃあ、また、と言う。
貧乏な小役人の穴山小左衛門と、六十二万石の大大名が兄弟分になる、お目出度いお噺で。
入船亭扇橋の「不孝者」 ― 2024/05/03 07:04
白熱の後半戦が始まります、と扇橋、新宿で芝居をやったのを、仲入に出た兼好師が観に来てくれて、よかったよ、そっち(役者)で食べな、その名前を僕に頂戴と言った、三遊亭なのに。 二代目が、親の跡を継ぐ、うまく行くのと行かないのがある、噺家だと……。 止めましょ。
「貯めたがる使いたがるで家がもめ」。 山城屋さんに掛け取に行った倅が戻らない、付いて行った清造だけが帰ってきた。 番頭さん、倅を掛け取に出すなと、言ったでしょ、太鼓判を押した任命責任がある。 旦那の、製造者責任もある。 清造、こっちへ来い。 何か、用か。 若旦那は、橘屋さんで謡の会があるんで、ちょっくら聞いていく、終わる頃に迎えに来てくれ、ということでした。 橘屋さんは、たいへんな人で、太鼓や三味線を入れて。 謡の会に太鼓や三味線かい、嘘だな、顔に書いてある。 倅に二円ももらったんだろう。 エッ、二円ももらってない、一円しかもらってない。 こっちへおいで、二円あげますから、仕舞いな。 どこへ行った? 柳橋の若竹という茶屋で。 着物を脱ぎな。 ヤンだ。 それを着て、私が迎えに行く。 ほっかむりするから、手拭も。 何で、お前が私の着物を着てるんだ。
ここだな、ごめん下さいまし、若旦那のお迎えに参りました。 若旦那、下にお迎えの方が…。 遊びは、まだこれからだ、行燈部屋か、蒲団部屋ででも待たしといてくれ。 どうぞ、こちらへ。 物置だよ。 これを、どうぞ。(と、膳をおく) ありがとうございます。 手銭で飲むようなものだ。 つないでいるか、燗冷ましだ。 ない子には、泣きをみないというが、死んだ婆さんがうらやましい。 二階で、倅が歌ってやがる。 案外、うまいね。 私が年取るのも、無理はない。 アッ、違う、間が、まだないんだ、駄目だ、駄目だ。 ほっかむりを取って、待つか。
あら、すみません、酔っ払って部屋を間違えました。 金弥…、金弥じゃあないか。 どちら様で。 私だよ。 旦那じゃあ、ございませんか、すっかり落ちぶれて。 こんなわけで、倅を迎えに来てるんだ。 少しぐらいは、話ができるんだろう。 お久し振りでございます。 何年になるだろう。 こりゃすまないな、こんな酒でも、お前の酌で、味がガラッと変わった。 いい女に、なったじゃないか。 娘離れしてなかったが、いい姐さん振りだ。 いい旦那がいるんだろう。 いいえ、私は一人です。 どんな男だ。 本当に、一人で。 体裁をつくることはない。 本当に、やめて下さい、一人なんです。 だって、私は、旦那に捨てられたんでございますから。 どんな訳があろうと、捨てられた女で…。
ある人の借金が請け判で、おっかぶさって、首をくくろうかと思ったんだ。 借金の肩代わりをしてくれる方が、お前との仲を知っていて、番頭の佐平にみんな聞かせて、ああいうことにした。 店が持ち直すと、私が患いついた。 ようやく治って、前より店が大きくなった。 盛り返す幸せな人だと、他人は言ってくれるけれど、私は胸にぽっかり穴が開いたようだった。 思い出すのは、金弥、お前だ。 心残りは、直(じか)にお前に会って、話をしなかったことだ。 あの時は、すまなかった。
あの後、一度世帯を持ったんです。 若い旦那で、二、三月で道楽三昧、きれいさっぱり別れました。 恥を忍んで、芸者に戻って、二度目のお勤め。 もうそれからは、恐くなって、旦那はいません、年寄はいけ好かないのが多い。 旦那は違います、お酌の内から一本になるまで、面倒をみて頂いて。 女ですから、旦那がそばにいてくれたらと思ったのは、一度や二度でありません。 お前の相談相手として、会ってくれることはないのか。 よくご存じのくせに。(と、膝をつねる) また、会って下さるのね、きっとですよ。 金弥!(と、肩に手を回し、抱き寄せようとする) お連れさん! 若旦那、お帰りです! 親不孝者め。
柳家権太楼の「つる」 ― 2024/05/04 07:50
よろしくお付き合い願います、と権太楼は始めた。 この齢になると、運転免許は、いらない。 返納したけれど、ちょっと迷った。 漫才の東 京太・うめ子の京太に、相談じゃないよ、世間話で聞いたら、駄目駄目、無謀なことをした、と言う。 何があったと、聞くと。 80幾つかで、千葉の松戸警察に返納したんだけれど、帰りに無免許運転で捕まった。 車はあるんで、弟子の福多楼が送ってくれる、気の利く男で、着物、時間、飯(めし)の面倒をみてくれる、会計は私のカード、暗証番号も知ってます、このところ一平さんと呼んでいる。
今日は、私がトリで、普通はもっと大きい噺をやる。 「つる」ですよ、40分やって下さい、って言われてる。 そんなにあるわけないだろう、「つーるー」で、終わっていいんだ。 長くやれって言っても、無理。 今日は、最初が知らねえネタ、それから難しいネタがつづいているんで、最後は気楽にしていて、いいんだろう、どうなるか。 別に、何かあるわけじゃない。(と、羽織を脱ぐ)
どうしようかと、思って。 何しに、来たんだ。 用って、訳じゃない。 床屋は暇がつぶせる、町内の若い衆が集まって、くだらない話、馬鹿話をしててね。 こないだ隠居さんの話が出てね。 噂話か。 うわさ? 口偏に尊ぶと書く。 そうなんです。 私のことを、何て言ってるんだ。 言えねえ、頭に血が昇って、スコーーンと逝っちゃうから。 何だ、そこまで言って。 耳を塞ぎたくなる話なんで、何も気にしないほうがいい。 大丈夫だ、言ってごらん。
隠居さんは、いつも美味い物を食って、仕事はしていない、ことによるとアワワワじゃないかって、ね。 アワワワって、何だ? ドロボウ! 泥棒なんかしていないって、言ってくれたんだろうな。 言ったよ、そんなものは、三年前にやめちゃった、てね。
こないだは、みんなで褒めてたよ。 隠居さんは、物を知っている、生き字引だって。 そうだ、それで、来たんだ。 半公が、「つる」は日本の代表的な鳥だって言って、「つる」は、なんで「つる」っていうのか、って聞くんです。 まあ、いいから落ち着けって言って、俺は用があるから帰る、隠居さんに聞いてみようって、やって来た。
「つる」は、姿形がいい。 首が長いから、大昔は首長鳥と言っていたんだ。 昔、ある白髪の老人が浜辺に立って、小手をかざしてはるか彼方を見ると、唐土(もろこし)の方から、オスの首長鳥が「つーーー」っと飛んで来て、松の古木に止まった。 あとからメスが「るーーー」っと飛んで来て、その松の古木に止まった。 白髪の老人が言った、「つるだ」。 隠居も、くだらないことを言うね。 よそでは、言うなよ、他言無用だ。 拷問を受けて、背中を鉈で割られて、鉄の熱湯を注がれようとも、話しません。
どっかで、やっちゃおう。 辰ちゃん、いるか。 鳥の鶴は、なんで「つる」っていうのか、知ってるか。 今、仕事が忙しいんで、帰ってくれないか。 話がしたいんで、しゃべるから、勝手に仕事をしろ。 鶴は、首が長いから、大昔は首長鳥と言っていたんだ。 昔、ある白痴の老人が浜辺に立って、小手をかざしてはるか彼方を見ると、オスの首長鳥が、とんもろこしをくわえて、「つーーー」っと飛んで来て、松の古木に止まった。 あとからメスの首長鳥が……。 さよなら。
隠居さん、これこれの後は、何でしたっけ。 お前、どっかでやったな。 白痴はお前だ、とんもろこしじゃなくて唐土(もろこし)だ。
辰ちゃん! また、来たのか。 辰ちゃん、さっきの話だけど、オスの首長鳥が「つーるー」っと飛んで来て、松の古木に止まった。 あとからメスの首長鳥が……、ヴァァァーーー。 何だ、どうした。 黙って、飛んで来た。
日本で最も古い野球部は? ― 2024/05/05 08:02
東京六大学野球春のリーグ戦、慶應は第一週の東大戦を5-2、8-3と連勝、4月27日からの第三週、法政との初戦を2-6で落とした後、28日は5-4でタイに持ち込み、29日は外丸、篠木両エースの投げ合いから1-1での延長戦となり、引分で明日の4試合目かと思われた12回裏、昨年の慶應高校甲子園優勝のキャッチャー渡辺憩が代打で登場、神宮初打席でさよならホームランを放ち2x-1で勝ち点2としたのであった。
このところ、東京六大学野球はもっぱら、BIG6.TVで見ているのだが、今シーズンからは、従来のアナウンサー一人だけの放送に、解説者が加わる試合もあるようになった。 慶法戦、初日は明治OBでヤクルト、巨人、阪神でプレーした広澤克実さんの解説、二日目はオリックス、日ハム、ヤクルトでプレーした法政OB大引啓次さんの解説、三日目は戸崎貴宏アナだけだった。
その広澤克実さん、野球の歴史などの細かいことに詳しくて、野球の始まりは慶應義塾に野球部が出来た三年前に、明治学院の野球部が出来、その主将は白洲次郎さんの父(文平)だった、白洲次郎さんは軽井沢のゴルフ場で会員でない田中角栄がプレーをやりたいというのを断った人だと話していた。
『慶應義塾史事典』の「野球部」には、「慶応義塾で野球の団体が初めて創られたのは明治17(1884)年であり、当初、青山英和学校(現青山学院)などと対戦しているが、公式には三田ベースボール倶楽部が組織された21(1888)年を野球部発足の年としている。」とある。 「明治学院の野球部」でネットを検索すると、明治学院野球部の創部は1885(明治18)年であり、日本で最も古い野球部の一つであると言われている(学校名が明治学院となるのは翌1886年)、とある。 当時は、一高や駒場農学校、工部大学校(これら三校とも後の東京大)、高商(後の一橋大)、青山学院、慶應義塾、学習院などが野球部を組織化していた、ともある。 明治学院は1885(明治18)年で、慶應義塾は公式には1888(明治21)年だから、広澤克実さんのいう通りなのだろう。
明治学院では、アメリカ人教師マックネイン教授が「野球」を伝え、創部以前には横浜の外国人チームと試合を行い、当時は野球を「校戯」と称していた。 1885年、東京一致英和学校(明治学院の前身の一つ)にベースボール部が創部され、白洲文平(ふみひら、白洲次郎の父)が活躍した。 1887年、学校が荏原郡白金村に移転し「白金クラブ」と名乗り、黎明期の日本野球界・学生野球界に名を轟かせた。 白洲文平は初代主将で、日本初のキャッチャーミットの使用者、実弟の純平・長平(1891年に同志社に転校して野球部を組織)も所属し名手として活躍した。
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