林家正蔵の「藁人形」後半 ― 2024/07/01 07:05
西念は、風邪でも引いたのか、千住河原の長屋で、十日ほど寝込んでしまった。 観音様へお礼参りに行くか。 小塚ッ原の若松屋に寄る。 藤どん、ごめん下さいまし。 エーッ、おくまさんへ、西念さんが来てます。 どうしたんだい、風邪を引いた、気を付けなよ。 あの話、どうなりました、駒形の絵草子屋。 何だい、そんな話が、あったかね。 二十両、ご用立てした。 何を言っているんだい、熱に浮かされてるんじゃないのかい。 何だい、二十両、私に貸した? 馬鹿も休み休みにしておくれ。 確かにご用立てしました、十日ばかり前に。 ちょいと西念さん、変な言いがかりをつけないでもらいたいね。 何、言ってんだい、二十両、あの晩、ウチで泊ったご祝儀だと思って、もらっといたよ。 西念さんが、うんと貯め込んでいるという噂で、仲間と賭けをして、持ってる方に賭けた狂言だよ。 みんなで鰻を食べた、西念さん、ご馳走様。 何だい、西念さん、私は、この家の掛かりだよ。 藤どん、乞食坊主、追い出しちゃいな。 西念は、地びたに叩きつけられて、額が割れて血が出た。 おくま! おくま! おくま、憶えてろよ!
ポツン、ポツンと降り出した雨が、ザーーーッと滝のような降りになった。 千住の河原、西念のところは、このあたりじゃないでしょうか。 西念さんは、ウチの長屋だ、あんたは? 甥の仁吉で。 話がある、西念さんは、二十日ばかり前に十日ほど寝込んだ後、出掛けて、戻ってきたら血だらけで、額にえらい傷だった。 それから人を中に入れないんだ。 訳を聞いてもらえませんか、長屋の連中も皆、心配している。 すみません、少しですが、これで皆さんでお蕎麦でも食べて下さい。
叔父さん、仁吉(じんきち)です。 仁吉か、心張りかってあるが、両隅を持って上下に振れば、開くよ。 開いた! 叔父さん、叔父さん、仁吉だよ。 何かあったのかい、話があって来た。 今日、御牢中を出たところで、目が覚めたよ。 俺もヤクザな稼業の足を洗って、棒振りの魚屋でもやろうと考えたんだ。 叔父さんの面倒を見させてくれねえか、親孝行の真似事をさせてくれ。 よく気がついた。 蕎麦をご馳走してやろう、ちょいと蕎麦を頼んでくるから、留守を頼んだぞ。 竹の杖にすがって、外へ行こうとして…、七輪の鍋、蓋を取って、中を見るなよ、中を見るなよ、中を見るなよ。 叔父さんも、歳を取ったな、「か組」の嘉吉って若い時は鳴らしたもんだったのに。
油の匂いがするな、茄子かな。 見るな、見るなと言われると、見たくなるもんで、蓋を取ると、藁人形がぶくり、ぶくり。 祈り殺そうってんのか。
見たな、仁吉。 蓋の置き様が変わっている。 もう、俺の祈りが通じねえよ。 仁吉、きっちり、片を付けてくれよ。 その野郎、どこのどいつなんだ? 小塚ッ原の若松屋のおくま、虎の子の二十両を、騙り盗られた。 こうしよう、働いて金が貯まったら、その女の所へ行こう。 祝儀をつけてもらおう、喧嘩はこっちの勝だ。 しかし、藁人形の油炒めは初めてだ、なんで、藁人形に五寸釘てえ呪いじゃねえんだ。 そりゃ釘じゃ利かねえんだ、相手の女は、糠屋の娘だ。
柳家喬太郎の「強情灸」 ― 2024/07/02 07:04
落語研究会、TBSなのに、今回からよみうり大手町ホール、楽屋によみうりの方が挨拶に見えて、ウチでも落語会やってますのでよろしく、と。 ここでは、さん喬一門会をやっていた。 楽屋のつくりが、部屋が並んでいるのでなくて、奥に和洋室があり、そこでメイクをしてる。 これでもメイクしてもらうんで、しているか、していないかというところに、メイクさんの腕がある。 一門会では、その部屋を師匠のさん喬が一人で使ってた。 使ってたと言っても、まだ元気なんで(笑)。 感慨の持ち方で、直系の弟子が12人、孫弟子多数、なかには新作やってるのもいる(笑)、十人寄れば気も十色だ。
強情な奴がいる。 過ぎると、悪強情(と、羽織を脱ぐ)。 具合、よくないそうじゃないか。 腰が痛くて、疝気かな。 医者に診てもらったのか。 医者は好きじゃないから。 陽気の替わり目のせいかもと、町内の奴湯で、朝から夕方まで入っていて、出たところで、ドーーンと倒れた。 みんなが水をかけてくれて、芯まで冷えた。 伊勢六のご隠居が、灸を据えたらいい、ウチにおいでよ、と。 肌脱ぎになって、背中を向けた。 これっぱかしのもの、ふた粒。 熱いのなんのって、脂汗だらだら、我慢してよ、歯を食いしばって、奥歯が三本折れた。 上に上にと据えるんだって、艾(もぐさ)をもらってきた。
隣のかみさんに頼んで、据えてもらった。 上に上に、っていうから、背中から、頭のてっぺんを通って、おでこまで来た。 そこへ、お前が来た。 今日は、灸を休もうか。 馬鹿だねえ、上に上に…って、違うんだよ。 腹んばいに、なんなよ。
そんなこっちゃあ、我慢する者がニッポンからいなくなっちゃう、人間、大人、男じゃねえか。 わかったよ、俺が据えてみようじゃないか。 気の持ちようだ。 艾をほぐして、丸める。 本当の灸を見せてやる。 丸めた艾で、机をドンドンと叩く。 腕にのせる、ドーデェー! のっけとくだけか。 線香、貸してみろ。 ほら、見てみねえ。 煙が上に上がる、浅間山だ。 腕に穴が開いちゃうよ、よしなよ、よしな、よしな。
こういうのを、本当の灸ってんだ。 石川五右衛門を知ってるか、油で釜茹でになって、ニッコリ笑ったてんだ。 ホッ、フッ、フッ、フッ、火の回りがいい。 八百屋お七なんざ、火あぶりになったんだ。 石川五右衛門は釜茹でだ、油ぐらぐら煮立ってるところで、辞世の歌を詠んだ、石川や浜の真砂は尽きるとも、むべ山風は嵐というらん。 下の句が違うんじゃないか。 泥棒だから、どっから持って来てもいいんだ。 ふざけんな、ウッ、コレッ、フッ、フッ、石川や、石川や……(腕の、艾の塊を振り払う)。 俺はちっとも、熱くないけれど、五右衛門はさぞ、熱かったろう。
桃月庵白酒の「山崎屋」前半 ― 2024/07/03 07:00
国立劇場なかなか進みませんね、あそこで、こっそりやっちゃったらどうですか。 10年経っても、あのまんまかもしれない、いろいろ大人の事情があるんでしょう。 最近のニュース、テレビ以外の情報が、ネットで入ってくる。 今日6月25日は、沢田研二の誕生日。 沢田研二は、師匠の雲助と同い年(笑)、沢田研二っていわれるとちょっと違う気がするけれど。 さん喬師匠とも同い年なんですね、勝手にしやがれって感じ。
大きさの比較に、以前はタバコのセブンスターと並べた。 東京ドーム何個分とかいう、鹿児島生れなんで、日没と共に消灯、東京ドームの見当がつかなかった。 末広亭二百個分。 吉原は、東京ドーム1.5個分、公認のお遊び場所で。 行こうか、中へ、北国(ほっこく)へ、とか言う。 江戸の鬼門、艮(うしとら)北東なので。 独特のしきたりがあって、遊女三千人御免の場所というが、何倍かの人がいた。 駕籠の乗り入れは許さない、大門までで、例外は急病人で来る医者だけ。 イベントもある仲の町通り、花魁道中には、禿(かむろ)という下っ端がつく。 チャンランチャンランと、清掻(すががき)という三味線に乗って、文金赤熊に派手なかんざしを挿し、豪華に着飾り、三ツ歯の駒下駄で、外八文字、定期的な酔っぱらいの歩き方で、コロリカラリと歩く。 花魁は教養があって、言葉遣いも違う。 「ぬし、お起きなんし」といい、「起きろ!」「起きてけつかれ!」とはいわない。 出身や育ちは、里言葉、アリンス言葉で、クリアされる。 最上級の花魁は、情報誌『吉原細見』によると、昼遊びだけで三分、一分あればひと月一家で暮らせた。 花魁には新造(しんぞ)が付く、振袖新造、後ろで踊る留袖新造、バックも無理な番頭新造はマネージャー。
久兵衛、親父の叱言はサワリで済んだよ。 時に番頭、聞いてもらいたい話がある、三十両、用立ててもらいたい。 三十両なんて大金、私にはありません。 店のお金からだ。 店のお金からなんて、手堅いと言われている私には、とても出来ません。 大きな声を出すな、出来なかろうが、粋なお前ならなんとかする。 大きな声は地声、私は野暮で。 ちょいと聞くが、あの女、いくつだ。 妾狂いしているとでも…。
久兵衛、ちょっと前へ、先月の二十日、隣町のお湯屋に行ったら、色の白い二十七、八の粋な年増が出て来た。 後を付いて行ったら、裏道に回り込んだ。 行き止まりの奥から二軒目の左、清元なにがしの看板。 そこにいたおばさんに聞いたら、よくしゃべる女で、お囲い者で、横山町の鼈甲問屋の番頭さんだという。 お前さんは堅い男だ、何かの間違いだと思っていたら、四、五日して、お前さんがそそくさと出て行った。 暇だから付いていくと、お前さんに似ているのが、その家に入って行って、覗くと、お前さんに似た男が何か食べてるんだ。 親父に、この話をそっくりしようか。 声が大きい、野暮です。 声の大きいのは地声だ、商人の倅は、野暮の方が手堅い。 ちがうんで、あれは妹の、おばさんのおばさんに当るような者で…。 頼む、と手をついているんだ、三十両、用立てておくれよ。 聞きたいんですが、そのお金、女に使うんですか。 四、五日したら、帰ってくる。
若旦那、本当に惚れてんですか、その女に。 一緒になれたら、道楽は止めますか。 世の中、表も裏もある。 三か月、ご辛抱なさって下さい。
桃月庵白酒の「山崎屋」後半 ― 2024/07/04 06:56
一芝居打ちます。 花魁を親元身請けして、町内の鳶頭(かしら)の家に預かってもらう。 若旦那が丸ノ内の赤井様の掛百両を取りに行って、それを鳶頭に預ける。 はてな? 若旦那が店に帰って財布を落したらしいと話しているところに、鳶頭が財布を拾ったと、飛び込んで来る。 大旦那が礼に来たところへ、花魁が御殿女中のような格好でお茶を出す。 大旦那は、誰だと、かならず聞きます。 かかあの妹で、長く屋敷奉公をしていたのだという。 大丈夫かい。 旦那は商い以外は目が節穴、大丈夫です。 行き遅れていて、どこかによいところはないでしょうか、持参金が三百両、箪笥長持が五棹。 旦那は欲が深い、ぜひ倅の嫁にというに違いない。 偉い、ごまかし慣れている。 私を誰だと思っているんです、三か月、ご辛抱願います。
旦那様。 久兵衛か。 丸ノ内の赤井様の掛百両、私が手を離せないので、貞吉に行かせようとしたら、蝶々を追っかけて出て行った、動態視力を養っているとかで。 最近、若旦那がすっかりご改心かと、お試しになったらいかがです。 もし、掛を持って帰らなかったら、勘当なさいませ。 必ず、お帰りになります。 強気だな。 好太郎、行ってきます。 聞いてたな。
倅が帰ったか、よく帰ったな。 掛は頂いてきたんだろうな、財布をここに出しなさい。 はてな! はてな!(と、懐を探る) どうした、落としたんじゃないだろうな。 そういえば……。 普通に話せ、悪い了見を起こしたんじゃないだろうな。 鳶頭が来ました。 表で財布を拾ったんですが、こちらの印が入ってたので、お改めを。 百両、確かにある。 好太郎、鳶頭が拾ってくれたんだ。 そうなんですか。 夢のようなお話で、若旦那、お帰りでよろしうございますな。 よいご縁談がありましたら、身を固めて頂いたらと存じます。
旦那様、鳶頭のところにお礼に行っていただきたいと思います。 羊羹の二切れも持っていくか。 百両ですから、十両ばかり包みまして。 見せるのか、あげるのか、いざ出すとなると、大金だ。 にんべんの鰹節の切手と、十両の目録をお持ちになって、鳶頭は江戸っ子ですから、目録だけはお返しになると思いますが、どちらを取るか、鳶頭をお試しになってはいかがでしょう。
鳶頭、いるかい。 こりゃあ、旦那様、恐れ入ります。 お茶、持って来い。 話がある、改めて礼を言う、倅の料簡が改まった。 この通り、にんべんの鰹節の切手と、十両の目録がある。 目録は返すだろう。 そうですね、にんべんの切手だけ頂いて、目録はそちらに。 そうか、鳶頭は江戸っ子だ。 早く、お茶を出して。 あちら、どういう娘さんで? かみさんの妹で。 似てないで、よかった。 ずっと武家奉公をしていたんですが、商人(あきんど)に嫁ぎたいと申してまして、どこかによいところはないでしょうか、持参金が三百両、箪笥長持が五棹。 ありますよ、家の倅、好太郎、もしよかったら家の倅はどうだろう。 倅がイヤだと言ったら、わしがもらう。
というわけで、旦那は楽隠居となった。 お花や、お花や、お茶をいれてくれ。 お茶でありんす。 武家奉公したからか、変った言葉だ。 そうだ、髪結床の親方に聞かれた、お宅のお嫁さんはどちらのお屋敷にいたのかと。 はい、北国ざますの。 北国といえば、加賀様かい。 加賀様なら、お女中衆もたくさんいるんだろうね。 はい、三千人。 そんなにいるのか、参勤交代なんか大変だろうな。 お女中は駕篭で行くのか。 道中はするんざます、駕篭の往き来はならない、三つ歯の高いぽっくりで、日の暮に出て、武蔵屋ィ行って、伊勢屋ィ行って、大和の、長門の、長崎の…。 おいおい男の足だってそんなに歩けない。 諸国を歩く六十六部、足の達者が飛脚と天狗……お前には六部に天狗が憑いたんだな。 いいえ、三分で新造がつきんした。
「かかとで呼吸する」 ― 2024/07/05 07:09
6月22日に発信した「等々力短信」『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>で、「道灌山で子規から後継者になれ、書物を読めといわれて、決裂した。 虚子は、生来の性質が呑気にやってゆく風で、母に「危ないところに近よるな」といましめられたままの臆病の弱虫、22、3から74歳の今日まで、書物より自然をよく見、自然を描くこと、俳句を作ったり、文章を書いたりして文芸に遊びつつ、荘子のいわゆる「踵で息をする」というような心持でやってきた。」と書いた。
荘子のいわゆる「踵で息をする」というのが、わからない。 踵は「きびす」とも読み、「踵を返す」「踵をめぐらす」(あともどりをする。引き返す。)、「踵を接する」(人のあとに密着して行く。転じて、いくつかの物事が引き続いて起こる。)、という慣用句もある。
「荘子」「踵で息をする」でネットを検索したら、【踵息】しょうそく 深く呼吸する。[荘子 大宗師]古の眞人~其の息するや深深たり。眞人の息するや、踵(かかと)を以てし、衆人の息するや喉(のど)を以てす、というのが出てきて、臨済宗大本山 円覚寺のサイトに『今日の言葉』2020.11.25.「かかとで呼吸する」があった。
『臨済録』では「一無位の真人」が、しばしば説かれている。 鈴木大拙先生は、『東洋的な見方』のなかで、「一無位の真人の意味が深い。無位とは、階級のないこと、数量でははかられぬこと、対峙的相関性の条件を超脱したということ。真人には道教的臭味があるが、仏者もよくこの字を使うこともある」と書かれているので、もとは道教において使われた言葉だったようだ。
『荘子』の「大宗師篇」に「真人」についての記述がある。 「通釈」を引くと、「むかしの真人は、失敗にさからいもせず、成功を鼻にもかけず、仕事らしい仕事もしない。こういうふうだと、しそんじても後悔などせず、うまくいっても得意にならない。こういうふうだと、高いところに登っても平気だし、水に入っても濡れず、火に入っても火傷をしない。知が道に到達した様子は、こういったものだ」というのだ。
さらに『荘子』では、「通釈」で、「昔の真人は、眠っているときには夢を見ず、起きているときには心配がなかった、うまい物を食べるわけでなく、呼吸はゆったりとしている。真人は踵で呼吸し、衆人(多くの人)は咽喉で呼吸する。人の議論に屈服しないものは、喉から出る言葉があたかも喉につかえた物を吐き出すように出てくるし、欲の深いものは、心の働きが浅い」
「真人の呼吸は踵を以てす」の一言は、白隠禅師もよく引用し、「其の息は深々たり」という様子を表している。
「喉で息をするのでもなく、胸で息をするのでもなく、腹式呼吸というものでもなく、もっと身体の奥深くまで息をして、踵まで達するというのです。 一歩一歩静かに歩いていると、この踵で呼吸していることが味わえるようになります。 真人は、今この生身の身体に生きてはたらいているものにほかなりません。 今現にはたらいているものであります」と、臨済宗大本山 円覚寺の横田南嶺師は説いているのだが、おわかりだろうか。
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