ベーゼンドルファー、代官山インスタレーション ― 2024/07/20 07:06
『代官山ヒルサイドテラス通信』7号、槇文彦さんの「朝倉徳道さんを偲んで」の後半に戻りたい。 ヒルサイドテラスを文化発信の拠点にする過程が書かれているからだ。 父誠一郎さんの没後、代官山ヒルサイドテラス、朝倉不動産の運営は、徳道さん、健吾さん兄弟に委ねられることになる。 槇文彦さんのみるところ、徳道さんの静、健吾さんの動というかたちで、徳道さんが亡くなる昨年(2016年)まで、実に見事に二人のコンビで様々な事業が運営されてきた。 徳道さんは、どちらかというと事業家というよりも文化人であった。 それを象徴する事柄として、ヒルサイドテラスの第一期(A・B棟)と第二期(C棟)の建物の間の駐車場の地下に多目的ホールをつくる計画が1983年頃あった時、「ここで音楽会も」という希望を徳道さんがいち早く出された。 それでホールの音響、控室のあり方、グランドピアノの持込み可能な大型リフト等を当初からホールの設計に盛り込むことが出来たのだ。 (このホールのベーゼンドルファーで、同期のジャズピアニスト佐藤允彦さんに、同期会で演奏してもらったことがある。佐藤允彦さんは『代官山ヒルサイドテラス通信』10号(2018秋・冬)に、「ベーゼンドルファーが生んだ「環太平洋楽」の縁」を寄稿している。)
第三期の建物(D・E棟)が出来た時、槇文彦さんは健吾さんと、その後のヒルサイドテラスを文化発信の拠点にしていこうと語り合い、徳道さんは強く賛同してくれた。
『代官山ヒルサイドテラス通信』2号(2014・15秋・冬)、槇文彦さんの「都市に潜在する情景」《代官山インスタレーション回想①》が興味深い。 ヒルサイドテラスを文化発信の拠点にするについて、何よりも心強かったのは、第一期の一角に北川フラムさんのアートフロントギャラリーが移ってきたことだった。 ヒルサイドテラスの誕生30周年を記念して1999年、単にヒルサイドテラスだけでなく、広く代官山地域を対象にしたアートインスタレーションを隔年で行うことになった。 槇さんには、ヒルサイドテラスとその周辺が、住む人達や訪れる人々にとって単に楽しいところであるだけでなく、そこここの場所に潜んでいるパワーをアートというかたちで顕在化できないかという期待があった。 第一回から、そのパワーがユーモアをもって発散され、日常の生活を一層豊かにすることがわかったのだ。
代官山インスタレーションで、槇さんが印象に残っている作品は、第一回の最優秀賞に選ばれた「地下鉄ヒルサイド駅」、二期の建物の道路に面した外階段がちょうど人の高さに位突き出しているところを巧みに利用して、地下鉄の駅の入り口に見立てたアイディアだ。 駅のサインを見て、本当に駅ができたかと思った人もいて、それがインスタレーションだとわかると多くの人の笑いを誘う、ユーモアがあった。 2007年の最優秀賞は、西郷山公園のいくつかのベンチを、白い8メートルの長い棒から吊って、よくある公園のブランコに見立てた。 それは普段の西郷山の公園の風景を一変させる華やかさをつくり出していた。
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