入船亭扇辰の宇野信夫作「江戸の夢」後半2024/08/12 06:59

 武兵衛とおらくは馬喰町に宿を取り、江戸見物をしていたが、五、六日で飽きてくる。 人、人、人で疲れる、そろそろ国へ帰るか。 私も、同じことを考えていたんですよ。 田舎の方が、のんびりしていい。 浅草の観音様をお参りして、帰ろう。

 雷門からまっすぐの並木、奈良屋という葉茶屋は、立派な店構えで、敷居が高い。 店は静まり返っている。 ごめん下さいませ。 アッ、鳥の糞だ、と武兵衛が拭う。 軒にツバメの巣があった。 あのー、あのー。 へーーい! どちら様で? 東海道丸子(まりこ)の在、日蔭村の庄屋で武兵衛と申しますが、ご主人にお目にかかりたい、婿の茶の良しあしを見て頂きたいのですが。 奈良屋宗味(そうみ)の店と、ご承知でしょうか、そういうことはいたしておりません。 困ったことになりましたね、ちょっとお待ちください。

 これは、これは、いらっしゃいまして。 私が奈良屋宗味で、せっかくのお越し、これで拝見いたしましょう。 六十を二つ三つ越した齢か、御召に十徳姿、懐から懐紙を出し、茶を少し載せ、二つ三つつまんで、口にふくむ、味わう。 そして、お話申し上げたいことがございますので、奥の方へ。 こちらへどうぞ。

 奥の書院で、茶道具を整え、奈良屋宗味は、ゆっくり、ゆっくりとお茶を淹れ、ゆっくり、ゆっくりと盃のような小さな器に分けて注ぐ。 ご一緒に、頂戴いたしましょう。 口に含むと、何とも言えない甘味があり、これがお茶かと思う。 宗味も、目を閉じて味わっていたが、婿殿はどういう人でしょうか、打ち明けてお話いただければ、と。 藤七と申しまして、六年前、八造という年寄の奉公人が車を出して足に怪我をしたのを、車に乗せて届けてくれた金毘羅参りの若い人です。 八造の仕事を手伝ってくれて、代りに雇ってくれとなった。 娘が目を掛けて、初め家内は嫌だと言ったのですが、昨年結婚して、ほどなく初孫が生まれます。 婿殿、お酒は? 生まれついての下戸と申しまして、飲みません。

 よく打ち明けて下さり、有難うございます。 お話したいことがございます。 このお茶、私が先年、宇治で密かにこしらえました玉の露です。 つくり方を知っているのは、宗味一人、倅(せがれ)だけに伝えました、六年前に。 こちらさんの息子さんは? 倅は、もう死にました。 陰日なたない、気働きもある、よい男でしたが、酒をたしなみ、酒の上の口喧嘩で、人を殺めて、遠い所へ行ってしまいました。

 久しぶりに、このお茶を味わい、宗味秘伝の茶を、よくぞおつくりなされた、宗味が喜んでいたと、婿殿に、よくお伝え願います。 良いお家の婿殿となり、まもなく初孫も生まれる、幸せな、おめでたいことです。 徳兵衛とおくらの二人が、表へ出る。 ツバメが、空を切り裂いて、飛んで行った。 「つばくらめ幾年つづく老舗かな」 あの方が、藤七の親御さんだったんですね。 黙って、歩け。 あの方、まだ、深々とお辞儀をなさっていらっしゃいますよ。 藤七の行儀良さ、言葉遣い……。 氏(宇治)は争えないものだ。