セメント王・浅野総一郎の「し尿ビジネス」 ― 2024/08/16 06:46
7月7日三田あるこう会の第568回例会「JR鶴見線をめぐる旅」に参加、初めてJR鶴見線に乗る<小人閑居日記 2024.7.12.>に書いたように、浅野総一郎(1848(嘉永元)-1930(昭和5))が地域の埋め立て、京浜工業地帯の開発と発展に大きな功績のあったことを、あらためて認識した。 そのブログを読んでもらった宮川幸雄さんには、近年は東海道線車窓から見えた浅野学園(中学校・高校)あたりの浅野総一郎銅像が高層建物に隠れて見えなくなったことを教えてもらった。
その浅野総一郎について、面白い記事を読んだので、書いておきたい。 8月3日の朝日新聞朝刊be『はじまりを歩く』「公衆トイレ」である(中村裕記者)。 見出しは「セメント王の し尿ビジネス」。 公衆衛生を目的とした日本初の近代的公衆トイレは、明治時代に横浜市に誕生した。 「横浜市史稿」によると、横浜開港後、日本人の立ち小便の取り締まりを求める声が外国人から起こり、1871(明治4)年、公費で83カ所の「路傍便所」ができた。 ただ、四斗樽(しとだる)を地中に浅く埋めて板囲いをしただけの粗末なもので、たまったし尿の管理も不十分、路上放尿の件数は減らなかった。 そこに登場したのが、のちに「セメント王」として名をはせた実業家、浅野総一郎がつくった便所である。
北林惣吉『浅野総一郎伝』(千倉書房、1930年)によると、し尿を大量に集めることができればカネになるとにらみ、神奈川県から融資をとりつけ小便器と大便器を備え換気にも配慮したモダンな「共同便所」(当初は「公同便所」と呼称)を1879(明治12)年に63カ所設置。 市民からは歓迎され、し尿は下請けのくみ取り業者を通じて農家に売りさばき、1年で投資額を回収したうえ、その後年間3千円の利益をあげた、というのだ。
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