知の編集工学にかたちを求め、ネットの片隅に「編集の国」2024/09/08 07:26

 松岡正剛さんは、雑誌『遊』を出しながら、編集とは組み合わせであるという確信を強めていった。 何かと何かを組み合わせる結合術は、それ自体が世界の新たな「あらわし」と「あらわれ」になる。 科学的なものと精神的なものを一緒に扱いたいと思っていたので、『遊』は宗教性や精神性など、秘教的なイメージにも危ういほど近づいた。 科学と精神、それぞれ守っている領域を超えようとしたときに、たとえば神秘主義とかオカルティズムが読者に感じ取られ、いまでいうスピリチュアルな読者がものすごく増えたことは事実だ。 ただ、正剛さんは、科学の領域と宗教の領域を混ぜて編集がしたいわけなので、ある思想に依拠したのではなかった。

 1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立。 美術全集『アート・ジャパネスク』(全18巻)や、文明の歩みを壮大な年表にした『情報の歴史』を手がけながら、「編集工学」の構想を練った。 「我々は生(なま)ではない」というのが、正剛さんの考え方の基礎にある。 メガネをかける、鉛筆やパソコンを持つ、言葉や図形や数字を使う、そこには必ず技術とか工学が加わっている。 となると、編集というものも工学の何かを借りている。 あるいは、編集そのものが工学じたいを生み出している。 工学性が編集に与えた影響と、編集が工学にもたらしたものをひもづけたい。 そう思い始めて、「編集工学」に向かっていった。 96年に『知の編集工学』で体系をまとめた。

 同時にメディアへの失望も感じていた。 いちばんの理由は、ベルリンの壁の崩壊と湾岸戦争だった。 この二つをきちんと捉えきれていない日本の実状に、かなりがっかりしていた。 日本は、元は国家どころか小さい単位でたくさんのものがあったのに、それが近代化を目指して国民国家を作り、徴税と徴兵のために「国民」と「そうでないもの」を分けてしまった。 ふとメディアを見ると、テレビも新聞も雑誌も国民国家的になっている。 これでは元々あった自由度や多様性から遠いなと、ずっと思っていた。 正剛さんが超えなければいけないのは国民国家というものだった。

 そういうなかで、知の編集工学にかたちを求めたい。 そう考えて、インターネットの片隅に「編集の国」を作るという発想に至った。 編集だけが進んだ国に旅をして、また戻っていく。 プリントメディアだけではなく、生きた状態で立ち寄れるところを作ろうと。

 それが後に、編集の方法を学ぶ「イシス編集学校」と、正剛さんが本を一冊ずつ取り上げて自在に書き継ぐ「千夜千冊」につながった。