田中優子・松岡正剛『日本問答』<等々力短信 第1183号 2024(令和6).9.25.>9/18発信2024/09/18 07:03

 松岡正剛(せいごう)さんが、8月12日に80歳で亡くなった。 情報や文化を独自の視点で組み合わせる「編集工学」を提唱し、日本文化を幅広く論じた。 ずっと気になる人だった。 九段高校の新聞部で「編集」にめざめたという、私も高校新聞部出身でこんな通信を長く続けてきたので、関心の範囲が近い感じを持っていた。 2021年に出た岩波新書、田中優子さんとの対談『江戸問答』で「江戸の多重性の秘密」を教わり、蔦屋重三郎に続いてブログに書いたことがあった。 江戸の文化や界隈を考えると、遊廓や芝居町の出現が大きいこと、江戸の文学や遊芸に特有の仕掛け、権威ある存在が卑近になる「やつし」と、あるものを別のものになぞらえる「見立て」などだ。

 松岡さんは、10月に出る『昭和問答』の最終校正を終え、病床で「あとがき」を書いて亡くなった。 それで2017年の対談一冊目『日本問答』を読むことにした。 これが知らないこと、驚くべき指摘の連続で、なぜ早く読まなかったのか、と思った。

 大和朝廷はいつ確立したか。 縄文社会の出土品を見るかぎり、強い「外」との関係は感じない。 それが劇的に変化してくるのは、鉄と稲、とくに漢字が届くようになってからだ。 弥生文物や古墳文物は「外」の影響によってできたということになる。 そういう渡来文物は渡来部族とともに日本を席捲していったかというと、かならずしもそうではない。 日本側のレセプターやアクターやアダプターがいて、渡来文化にまじっていったはずだ。 そこにはどういう集団力や指導力があったのか。 大和朝廷はどのようにできたのか、数ある豪族のうちのオオキミ(大王)が天皇になっていけたのか。

天皇家の血筋がどこに由来するか、それが王権の確立にどんな影響を与えていたのかは、まだよくわかっていない。 なかなか書きにくいことでもある。 天皇家だけではなく、たとえば秦(はた)氏のような渡来系の血脈と動向も、ほとんど実態はわかっていない。 六世紀から八世紀にかけては、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野、武蔵など関東一帯に、関西から主に朝鮮系の渡来人が続々と入植してきた。 かれらは馬の飼育、漁の技術、麻、絹、瓦、文字や画、皮革、仏教などをもってきた。

 なぜ江戸時代を通して、あれだけがんばってキリシタン禁制をしたか。 裏を返せば、キリスト教はかなり日本に入っていたということで、信者が60万人もいたといわれる。 人口が1900万人ぐらいの時期。 禁制後は「家の宗教」として秘かに継承された。 キリシタンは、為政者からも、一般の人からも、今のイスラム過激派のように攪乱者、アナーキーな「乱をおこしそうな人」とみなされ、幕府は寺請制度でID管理した。

 指摘の例の三、「鎖国」という言葉、概念じたいが江戸時代にはなかった。