文耕、現将軍・徳川家重公の実情を語る ― 2024/09/22 07:35
武家社会にまつわる講釈を語り始めて七日目、釆女ヶ原の小屋に詰め掛ける客は、ますます増えた。 中ほどの床几に異形の客が二人座っていた。 坊主頭で、女物のようなけばけばしい鬱金色の小袖に黒い羽織の老人は、江戸で高名な講釈師、深井志道軒とわかったが、もう一人の総髪の男は、医師とも八卦見とも知れない風体をしている。 文耕はこの日、『当時珍説要秘録』で、最後に付け足しのように加えた、次代の将軍となるはずの家治についての、耳当たりの悪くない話から始めるつもりだった。 ところが、客に深井志道軒がいるところから、文耕に、将軍家に媚びていると受け取られかねない話は避けたいという気持が生まれた。 『秘録』「巻の一」冒頭の、現将軍の徳川家重公について語り始めたのだ。
――家重公は、病弱な上、「淫酒」の度が過ぎ、大奥で酒宴をひらいては御女中衆のみ相手にしている。 父君の吉宗公が鷹狩りを勧めたのも、その「淫」と「酒」から遠ざけようとのご配慮からであった。 一時は功を奏したものの、吉宗公亡きいまは元に戻り、「淫酒」によって夜更かしをするため、朝の目覚めは遅く、昼間は常に朦朧としている……。
話を聞いている客たちが、少しずつ緊張するのが伝わってきた。 しかし、同時に、もっと聞きたいという気配も伝わってくる。
――家重公のろれつが回らないのは、「淫酒」のせいか他に理由があるのかは定かでないが、およそ上意を幕閣の要人に伝えることもできず、もっぱら側用人の大岡出雲守の口を借りることになる。 そのため、出雲守は陰で「御言葉代」とよばれている。 また、御小便が近いことでも難儀しており、上野の寛永寺や芝の増上寺に御参りする際も、途中の三カ所に仮の御閑所、厠を設けるほどである……。
文耕が、家重の「御小便」の近さがもたらす周囲の者の困惑のあれこれを語ると、客は忍び笑いをこらえ切れなくなり、声に出してしまったりするが、すぐにまずいと思い直すらしく、必死に表情を元に戻すなどを、繰り返した。
――家重の正室は京都から輿入れした伏見宮の四女比宮(なみのみや)である。 この比宮が懐妊から死産を経た末に早世すると、その侍女で、公家の出のお幸(こう)を側室とした。 長子の家治は、このお幸から生まれることになった。 お幸の方は、家重の「淫酒」の度が過ぎるのを懸念し、心からの忠言を述べつづけたが、かえって疎まれることになり、二の丸に押し込められてしまった。 我が子の家治とも対面できなくなるという様子を見かねた吉宗が、家重に将軍職を譲る際に、本丸の大奥に迎え入れることを促した。 こうしてお幸の方はあらためて御部屋様として遇されるようになったが、そのときは女の盛りをとうに過ぎてしまっていた……。
客は驚き呆れながら熱心に最後まで耳を傾けてくれ、興奮したような面持ちで小屋を出ていった。 志道軒と総髪の男は、床几に残っていた。 志道軒は、文耕に、「面白く聞かせてもらったよ」、「面白くはあるが、ちっと危うすぎる」、「気をつけることだ。お上もいつまでも見逃しちゃあくれねぇぜ」、「お前さん、死ぬぜ」と、言った。 隣の総髪は志道軒に向かって、「いいではないですか。文耕さんの好きなようにやっていただけば、花のお江戸がもっと面白くなる」と言った。 志道軒は、「こいつは平賀源内、天下のお調子者。しかし、こんなお調子者の言うことを聞く必要はありゃしないぜ」。 宝暦七年のこのとき平賀源内は三十歳、大坂から江戸に出てきて二年目のことだった。 志道軒の言葉が現実のものとなり、馬場文耕が獄門にかけられるのは、翌宝暦八年のことだった。
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