弟子二人、伝吉と源吉、佐竹家御家騒動2024/09/27 07:11

 馬場文耕は、これまでの自分の家重についての知識が、ほとんど人づてに聞いた話、噂によっていたことに、あらためて気づいた。 だが、実際に会ってみると、そうしたものの断片は木っ端のごとく吹き飛ばされることになった。 噂など、いくら拾い集めても、真の存在の前には無力なのかもしれない。 この先も読物を書きつづけ、それをもとに講釈をしようとするなら、根本から考え直さなくてはいけない。 ――これまで自分は何を書き、何を語っていたのだろう。

 明けて十月、答えが出ないまま、毎月五日の小間物屋の井筒屋での夜講の日を迎えた。 九月の晦日に誰とも知らぬ大名の屋敷で講釈する心積りだった大岡越前守忠相の話をした。 翌日、いつものように井筒屋の手代の源吉が、木戸銭をまとめて届けに来た。 陰気な顔つきの四十過ぎの男、伝吉を連れていて、その伝吉が文耕の弟子になりたいという。 町医者の次男で、芝居の狂言作者の見習いをしていたが芽が出ず、いまは公事宿の手伝いをしているという。 覚えるのが得意、ぜひにと頼むので、昨夜の話をざっとやってみろ、というと、実に見事に語ってみせた。 文耕は弟子としてではなく、源吉の知り合いとして、出入りを許し、自分が語ったり書いたりするものを好きに講釈するのはかまわない、と言った。 この伝吉が、後世、馬場文耕の弟子と伝えられるようになる森川馬谷(ばこく)である。

 釆女ヶ原では、拵え物の怪談「番町皿屋敷」を語ることにした。 「皿屋敷」は評判を呼び、七日目、八日目になると、客が小屋に入り切れなくなった。 貸本屋の寄り合いで、近いうちに「皿屋敷」を読物にして藤兵衛に渡せるかもしれないと告げると、その場にいる皆が喜んだ。 釆女ヶ原の「皿屋敷」の人気は広く伝わっていて、写本になれば、貸本の客は我先に読みたがるはずだからだ。

 その翌日、源吉が訪ねてきて、自分も弟子にしてくれ、という。 先日、文耕と伝吉が御家騒動について話すのを聞き、源吉が秋田の佐竹家のことを口にしたら、文耕が関心を示してくれた。 翌日、小間物を届けに下谷の佐竹家上屋敷に行き、長屋の勤番侍を居酒屋に誘い出すと、酒を飲ませて、御家騒動の最近のおおよそを聞き出した。 これを文耕さんに講釈にしてもらえたらと思ったら、居ても立ってもいられなくなった。 間違いなく源吉は、文耕が知っているどの貸本屋よりも話し上手であり、聞き上手だった。 伝吉さんが講釈の真似事なら、あっしは探索の真似事をさせてもらいやした、という。 さらに、井筒屋には、お暇をいただいた、と。 自分とほとんど同時に丁稚に入った手代とのどちらかが、近く番頭になるのだが、旦那が迷っていたので、自分が身を引けば丸く納まる。 講釈を聞いて、源吉が褒め、常に強く反応するのは弱い立場の者が救われる場面だった。 それは、里見樹一郎の評ともどこか似ていた。 講釈師では食えないぞ、というと、心配ない背負い小間物になって、井筒屋で仕入れたものを売らせてもらうことにした、という。

 佐竹家の御家騒動とは、こういう経過だった。 先々代の藩主義峰公が重い病気になり、嫡子がないので、養子を取ることになった。 二つの分家の義堅(よしかた)公と義明(よしはる)公が候補になる。 義明公の父、佐竹壱岐守がなんとしても息子を藩主にしたいと望み、義峰公の寵臣・那珂忠左衛門を味方に引き入れた。 しかし、藩論の大勢は義堅公の側に傾き、養子にすると決してしまった。 ここから不思議な出来事が立て続けに起こる。 なんと養子になった義堅公が、重病の藩主義峰公より先に死んでしまった。 そこで、義堅公の子息の義真公が養子の後を継ぎ、いよいよ義峰公が死ぬと、その義真公が十八歳で藩主になったが、その四年後、二十二歳で急死した。 どうやら那珂忠左衛門に毒を盛られたらしいとの噂だったが、ともかく残された義明公が家督を継ぐことになった。

 源吉が下谷の勤番侍から聞き出した、その後の話は、敵役の那珂忠左衛門がこの夏、国元の御城で御詮議にかけられ、義明公の命により、引き廻しの上、斬罪という極刑に処せられることになったという。 文耕は、妙だな、どうして義明公は味方と言える那珂忠左衛門を処刑しなくてはならなかったのだ、と首を傾げた。 なんでも領民にとってとんでもない政(まつりごと)をしたとかで…。 この夏、佐竹の国元で、何が起っていたのだろうな。 源吉は、行ってみましょうか、久保田(現、秋田市)へ。 文耕は、この若者なら、噂の奥にある真(まこと)の一部でも探り出してくることができるかもしれない、と思った。 梅干しの瓶を引っくり返して、大岡家での講釈の礼金三十両から、小判を十枚、源吉に渡した。