美濃郡上の金森藩で年貢をめぐる騒動四年2024/09/29 07:47

 文耕の長屋を、伝吉と共に黒羽織の町人が訪ねてきた。 神田橋本町で公事宿(くじやど)を営んでいる秩父屋半七、伝吉の雇い主だ。 格別厄介事の頼みだという。 公事宿は、遠方から江戸に出てきた者を泊め、お上への訴訟事の手伝いもする。

 秩父屋は長い話を語り始めた。 美濃の郡上に金森藩という三万八千石の小藩がある。 藩主は金森頼錦(よりかね)、この領内で四年前の宝暦四年から年貢の取り立て方を巡って騒動が起きている。 短い期間に、転封、領地替えを二度も強いられ、江戸の藩邸が火事で二度も焼失、財政が逼迫していた。 さらに、藩主頼錦が幕府の奏者番(そうじゃばん)に用いられて、将軍近くに仕え、他家との付き合いなど交際費が桁違いに嵩んだ。 その結果、領民に対して、ありとあらゆる手立てで税を取るようになった上、ついに年貢の取り立て方に手をつけざるを得なくなった。 それまでは、何十年かに一度の検地により定められた収穫量を基準に、常に決まった税率をかける定免法(じょうめんほう)だったが、これを毎年の作柄に応じて税率をかける検見法(けみほう)にすることにしたのだ。 しかも、最も百姓に苛酷とされる有毛(ありけ)検見法を採用した。 定免法では、農具の改良や努力や開墾により増産することができていたが、有毛検見法だと、それが年貢の上乗せで帳消しになってしまう。

 百姓たちは各地から大勢が集結して城下に向かい、検見取り(けみどり)の断念と、各種の税の免除減額を願った十六条を記した書状を藩に提出するという、いわゆる強訴に及んだ。 その勢いにたじろいだ藩側は、いったん検見取りを断念、十六条の願いを受け入れたが、翌年の宝暦五年、藩の手の込んだ策略に抗することができず、ついに庄屋たちが検見取りを「お請けする」という旨の書状に印を押してしまう。 これに怒った百姓たちは、集まりを持って傘連判状を作り、検見取り拒否の意志を固め合った。 そして、藩主頼錦に願いを聞いてもらうべく、百姓たちの惣代数十人が江戸へ向かった。 金森藩の芝の藩邸に願書を出したが、受け入れられず、逆に捕らえられ牢に入れられてしまった。

 そこで、郡上の百姓たちはさらに江戸へ人を送り込み、ついに駕籠訴を決行することにした。 駕籠訴とは、千代田城に向かう幕閣の要人の駕籠の行列に飛び込み、「お願いいたします」と声を上げることで、訴えを聞いてもらおうとする方法である。 越訴(おっそ)と呼ばれ、天下の御法度ということになっていた。 慈悲心が篤いと評判の老中酒井左衛門尉を選び、十一月に六人で決行した。 警護の武士に排除されたが、訴人のひとりが大声で泣き出すと、駕籠の中から声がかかり、屋敷で待たされ、夕刻屋敷に戻った酒井が願書を受け取ってくれた。 やがて、北町奉行所依田和泉守に呼び出され、吟味を受けることになった。 奉行所の扱いは好意的で、百姓たちはすぐにでも訴えが通るものと喜んだが、なぜか宿に留め置かれる「宿預け」にされたまま、空しく月日が過ぎていくばかりだった。

 それでも翌年の宝暦六年十月には郡上から検見取りに賛成の庄屋たちが呼び出され、駕籠訴人たちとの吟味対決があったが、十二月には、何の判決も出されないまま、郡上への帰国が命じられた。 年が明けて郡上に戻ると、駕籠訴人は未決の科人(とがにん)でもあるので、今度は「村預け」になり、最初は庄屋宅で幽閉され、やがて自宅での軟禁となった。 その宝暦七年も、訴訟に何の進展もなく、「願い流れ」を恐れなくてはならなくなってきた。

等々力短信 第1183号は…2024/09/29 07:56

<等々力短信 第1183号 2024(令和6).9.25.>田中優子・松岡正剛『日本問答』 は、9月18日にアップしました。 9月18日をご覧ください。