「福沢の近代化構想は実現したか」2024/11/09 07:06

 2011年3月11日に東日本大震災が起こった。 その一年後、「福沢の近代化構想は実現したか」という問題に関連して、私は下記の一連を書いていた。 そのうち、福沢の近代化構想は実現したか(1) (2) (3)を再録しておく。

渡辺憲司立教新座高校長の「贈る言葉」<小人閑居日記 2012.3.9.>
「18歳の君たちへ 東北の海を 感じに行こう」<小人閑居日記 2012.3.10.>
漱石が『坊っちゃん』を書いた理由<小人閑居日記 2012.3.11.>
『坊っちゃん』の文明批評<小人閑居日記 2012.3.12.>
漱石は現代日本を書いた<小人閑居日記 2012.3.13.>
福沢の近代化構想は実現したか(1)<小人閑居日記 2012.3.14.>
福沢の近代化構想は実現したか(2)<小人閑居日記 2012.3.15.>
福沢の近代化構想は実現したか(3)<小人閑居日記 2012.3.16.>
辻井喬さんの「日本人のゆくえ」<小人閑居日記 2012.3.17.>
辻井喬さんの「民主主義の実体化」<小人閑居日記 2012.3.18.>

     福沢の近代化構想は実現したか(1)<小人閑居日記 2012.3.14.>

 三日間にわたって、半藤一利さんの講演「夏目漱石『坊っちゃん』を読む」をご紹介したのは、それが福沢諭吉と関連するからでもあった。 福沢が幕末から明治初期に構想した日本の近代化は、本当に実現したのだろうか、という問題である。 近年の福沢研究は、否定的な見方をしている。 この日記にも、そのいくつかを書いてきた。 三日をかけて、ざっと復習しておく。

 松崎欣一さんの見解を、私はずばり「福沢の筋書(理想)と現実との乖離<小人閑居日記 2004.11.30.>」と題した。 みずからの描いた筋書(理想)と現実との乖離に対する福沢の「無限の苦痛」が、存命中に自ら編み刊行した『福沢全集』全五巻、『全集緒言』、『福翁自伝』を生んだ。 『自伝』と『緒言』が、福沢の前半生に大きな比重をおいているのは、自らが掲げた維新変革期の理想の原理に、改めて立ち帰ることの必要を認識したからではないか、と松崎さんはいうのだ。

 「時の政府は、徹底した中央集権のもとでの制度変革に重点をおき、国民を支配される者と位置づけ、旧精神の温存と再編をはかろうとしたのに対し、福沢は、その根底に個人の精神革命を軸に時代の精神そのものの変革をすえた。両者は思想レベルで鋭い対立をはらんでいた。/両者のこうした緊張関係が、いかなる憲法をもつべきかという緊迫した状況のもとであらわになったものが明治十四年政変であった。」」(正田庄次郎「『文明論之概略』の日本近代化構想」<小人閑居日記 2011.11.14.>)

 「初めのうちは『学問のすゝめ』が何百万部出たかわかりませんが、海賊版まで出た。それが彼の収入そのものだったわけですけど、明治十三年に、政府が統制に切り替え、福沢の著作がすべて教科書として使用禁止とされてからは全然売れなくなった。そうしますとたちまち財政難に陥って、ほうぼう福沢は金策に走り回ったりする。しかし福沢は決して「私立」の原則を崩さなかった。」(朝日文庫『瘠我慢の精神』藤田省三「『瘠我慢の説』を読む」)   明治14年の政変以前から、福沢に対するこういう圧迫は始まっていた訳で、さらに政変が決定的な追い討ちとなった。 政変は門下生たちの境遇にも大きな影響を与えたから、平気を装ってはいたが、福沢の受けた衝撃の大きさとその苦悩はかなりのものであったろう。(「福沢の著作、すべて教科書に使用禁止」<小人閑居日記 2009.1.2.>)

     福沢の近代化構想は実現したか(2)<小人閑居日記 2012.3.15.>

 寺崎修さん(武蔵野大学学長)は、福沢の思い描いた近代化日本を、天皇制・議会・内閣・地方制度について検討した。 天皇制…明治15年の『帝室論』は、新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。 議会…福沢は過激な自由民権運動には同調せず、まずは地方民会の充実と地方分権の確立を唱えていたが、明治11年9月愛国社という全国組織が再興され、自由民権運動が拡大すると、もっぱら国会を開けという議論を展開する。 内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内閣制を説いた。(明治12年『民情一新』) 地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」-外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。

 こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だったのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなかった。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギリスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、象徴天皇制と同じ『帝室論』の考え方とともに、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て来たところだし、地方分権に至っては未だに入口の議論が続いている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎修さんは指摘した。(「福沢諭吉の近代化構想」その一・その二<小人閑居日記 2008.6.6.-7.>)

 官尊民卑、男尊女卑も、福沢が一貫して攻撃した対象だった。 官尊民卑については、その教育面のそれを寺崎修さんが、2011年の福澤先生誕生記念会で講演している。 慶應義塾に対する文部省の圧迫政策は、明治14年の政変以前、すでに明治12年頃から始まっており、政変後に激しくなったと言える。 福沢は私立学校への圧迫がだんだんひどくなっていることを指摘し、官立学校は全廃しても差し支えない、全廃できない場合は私学並みの授業料を取れという官立学校の“民営化”を提案している。(「福澤諭吉の提言」(2)官尊民卑の教育政策<小人閑居日記 2011.1.15.>)

 2009年2月7日、東京国立博物館「未来をひらく 福澤諭吉展」の記念講演会で米山光儀(みつのり)福澤研究センター所長は「同床異夢の教育―福澤諭吉と近代日本の教育」と題し、福沢の構想が、明治政府の近代学校制度によって実現したかどうかを検討し、福沢の教育政策批判を取り上げた。 福沢は明治12年の『福澤文集二編』「小学教育の事」で、8年制の小学校など実際に学ぶ人はいない、せいぜい1年、国民の経済力に対応した教育制度をつくるべきだと、漸進主義の考えを述べた。 明治14年の政変以後、教育政策が知育から徳育へと転換したのに対しては、福沢は明治15年の『徳育如何』で、その儒教主義を批判した。 (教育政策についての福沢の批判<小人閑居日記 2009.2.12.>)

 女性論・家族論でも、最近『福澤諭吉と女性』(慶應義塾大学出版会)を上梓した西澤直子福澤研究センター教授は、次のような見解だ。 福沢はその近代化構想「文明流」対「儒教主義の旧道徳」の一端として、女性論では「新女大学主義」対「女大学風の教育」として展開した。 「女大学」(当時は貝原益軒作とされていた「女大学」的規範)は、福沢が構想する日本の近代化とは相容れない存在として強く認識されていた。 明治10年代半ば以降「儒教主義の旧道徳」が示した「女大学」風の“新しい”女性像では、日常的な家庭生活自体(夫への内助・子育てなど)が国を担う女性の役割として位置づけられ、女性と国家とのかかわりが明らかになった。 それは日清、日露の戦争を経て、特に顕著になり、国民総動員体制へと向ったのだった。 福沢の女性論・家族論は、「最後の決戦」に敗れたのだ、と言う。(「福沢の女性論・家族論は「最後の決戦」に勝ったか」<小人閑居日記 2005.11.12.>)

     福沢の近代化構想は実現したか(3)<小人閑居日記 2012.3.16.>

 松浦寿輝さんは、2008年12月6日の福澤諭吉協会土曜セミナー、「福澤諭吉と「智徳の進歩」」で、つぎのような話をした。

 福沢は明治8年『文明論之概略』で、智徳の進歩を主張し、聡明な相対主義を表明した。 しかし、この福沢の主張は、よい方には受け継がれなかったのではないか。 大きな啓蒙的なビジョンよりも、小さな意味での専門化、狭いスペシャライゼーションが生れた。 論壇はイデオロギー化し、福沢の文明史観は、レトリカルに一人歩きして、社会的に利用される。 福沢の思想は、妙な形で捻じ曲げられ、変質劣化して、やせ細った形にされてしまった。 それが超国家主義や国民総動員につながる近代日本の悲劇を準備したのではないか、と松浦寿輝さんは言う。

明治14年の政変が転機となって、啓蒙思想の現政権からの排斥が始まった。 明治22(1889)年大日本帝国憲法発布によって、立憲君主制の国家体制が確立し、明治国家の基礎が据えられた。 井上毅(こわし)と元田永孚(ながざね)が協議を重ねてつくったたった350字のテクストだが、明治23年の教育勅語の発布は、呪縛力の強い言説空間をつくり出し、その演じた役割は大きい。 天皇制イデオロギー的支配は、子供の心に入り込んだ。(福沢の思想が劣化して、悲劇は準備された<小人閑居日記 2008.12.13.>)

 つぎは坂野(ばんの)潤治東京大学名誉教授の「幕末・維新史における議会と憲法―交詢社私擬憲法の位置づけのために―」(2006年12月9日福澤諭吉協会の第100回土曜セミナー)から。 廃藩置県で各藩の「財権」と「兵権」が中央政府に吸収された時に、「憲法」の必要性にいち早く気づいた木戸孝允は岩倉使節団で、欧米各国の「憲法」に焦点を定めて視察してきた。 そしてドイツ憲法を模範にすることを決めた。 坂野さんは、戊辰戦争で名を馳せた、いわば武闘派の板垣退助には「民選議院設立建白書」など書けない、それは幕末議会論と自由民権論の連続性を示す、とする。 憲法論抜きの幕末議会論が板垣退助らの愛国社に受け継がれ、木戸孝允のドイツ型憲法が明治14(1881)年4月の「交詢社私擬憲法」(イギリス型議院内閣制←馬場注記)の画期性と孤立性をもたらした。 それは幕末以来初めての、「憲法論」と「議会論」の結合だったのである。 それがいわば「議会論」抜きの「憲法論」(井上毅)と、「憲法論」抜きの「議会論」(板垣退助)の挟み撃ちに合った時、明治14年の政変が起こった、と坂野さんはいう。(「交詢社私擬憲法」の画期性と孤立性<小人閑居日記 2006.12.25.>)

こう見て来ると、浮かび上がって来るのは、明治14年の政変が、大きな転換点になって、そこでの福沢の近代化構想の挫折に始まり、『三四郎』の先生の「この国は亡びるね」という予言が、太平洋戦争の敗戦で実現してしまう流れである。